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今回は、ドラマを見てすっきりした気持ちになりましたね。徳川御三家の大国紀州藩と渡り合う、龍馬たち。長崎の花街から発信された「船を沈めた その償いは 金をとらずに 国をとる よさこいよさこい」の俗謡は、町中に広がり、土佐藩は圧倒的な支持を得ることになりました。
「世論を味方につける。」という作戦は、現代においては頻繁に用いられる手法ですが、当時としては画期的だったでしょう。こんな作戦を企てられる龍馬は、今さらながらですが・・・すごい!

【一番損をしたのは、大洲藩??】
土佐藩は、見事に紀州藩から賠償金を得ることに成功しました。いろは丸の船価と、当時の積み荷の値段の合計で、8万3千両とも言われています。
ただ、その後も種々調整があり、結果的に7万両まで減額されたようです。

そして、船価のうち、大洲藩が購入先に対して未払いの金額は、紀州藩が直接購入先に支払うこととなり、支払い済の船価と積み荷の値段の合計、4万2千両が土佐藩に支払われることとなりました。
大洲藩が支払い済の船価は、約1万両。これは大洲藩に返されるはずなのですが、どうも結局返ってこなかったようなのです。

明治4年(1871)、大洲藩で非常に大きな百姓一揆が発生しました。なんと、一揆を起こした農民の中に商人も多数おり、この商人たちが「いろは丸の船代として、貸した金が戻ってこない。その恨みだ。」と息巻く人たちがいたそうです。
いろは丸事件後に、大政奉還、王政復古と世の中が大きく変わってしまい、お金の流れもうやむやになってしまったのでしょう。一説には、岩崎弥太郎が懐に入れてしまったという話もあるようですが、定かではありません。
結局、一番損をしたのは、何も非が無いのにお金を取られた挙げ句に、船の影も形も無くなってしまった大洲藩だったのかもしれません。

最後に、若干話題を変えますが、龍馬が、兄権平さんにいろは丸事件の顛末を報告した書簡(慶応3年(1867)6月24日付)があります。その内容のうち、一部を抜粋します。

皆人の申し候には、此龍馬が船の論たるや、日本の海路定則を定めたりとて、海船乗りらは聞きに参り候。御笑い遣わさるべく候。
龍馬は、いろは丸事件の談判の勝利で、名を世の中に一気に広めることとなりました。名を広めた結果が、今後の龍馬の行く末を左右することとなります。





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