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 今回は、よく出来ていました。ハラハラ、ドキドキの清風亭会談。会談の背景は、少々史実と異なりますが、お元が同席していたり、それなりに史実に忠実でした。面白かった!もう1回見よう(笑)

 清風亭での龍馬と後藤象二郎の会談。実現したのは、慶応3年(1867)1月13日頃とされています。慶応3年・・・いよいよ龍馬ラストの年です。ドラマもラストに向けて、佳境に入ってきました。

【龍馬と後藤象二郎が急接近した訳・・・龍馬は後藤に利用された?】
 清風亭会談を取持ったのは、他藩の状況調査に来ていた溝渕広之丞と、土佐商会の松井周助と言われています。つまりこの会談は、土佐藩側、後藤サイドが最初に言い出したようです。龍馬の気持ちを和らげるために、龍馬が懇意とするお元を会談に同席させたのも、後藤サイド。では後藤は、この会談にどのような思惑を持っていたのでしょうか。

 武市半平太ら土佐勤王党が瓦解した後、土佐藩の藩論は「公武合体(朝廷と幕府が共同で政治をつかさどる)」でした。しかしながら、長州征伐の失敗など幕府に陰りが見え始めた慶応2年(1866)の夏頃から、後藤象二郎など土佐藩の首脳たちは、積極的に長崎や長州などに政治状況の調査に出向いています。そこで、幕府の力が急速に弱まっている状況を把握し、早急に現在の「公武合体」論から「倒幕」論に、藩論を方向転換する必要性を認識したのです。実際、首脳の中には、既に「倒幕」を進言する者もいたようです。
 種々協議の結果、土佐藩の藩論は「倒幕」となりました。そして「倒幕」の主導的存在になっている薩摩、長州と肩を並べ、少し以前の「薩長土」と言われる立場を戻そうと、画策がねられました。
そして、薩摩・長州と接近するための手段として後藤象二郎が考えたのが、両藩に精通している龍馬を利用することでした。
そう、清風亭会談は、龍馬を利用するために後藤が準備したものだったのです。

この清風亭会談後の龍馬の言動が、残されています。
『土佐維新勤王史』によると次のようです。

 彼と我とは昨まで刺さば突ふと云う敵同士なるに、敢えて一言も既往の事に及ばず、唯前途の大局のみを説くは、頗(すこぶ)る要領を得たり。是れ其の一つ。又酒座の談柄をば、いつも自己を中心にする様に惹(ひ)き向ける所は、なかなか才気に富めり。是れ其の二つ。

 龍馬は、会談時の後藤の印象を「過去のことは振り返らず、将来の方向性を述べるばかりで、すこぶる同感した。」と社中の仲間に伝えました。龍馬は、後藤の発言に感化されたようです。
これだけを読むと、後藤の思惑通りに龍馬が反応したように思えます。

しかし・・・。実は、龍馬の方が上だったのです。

 発信日は定かではありませんが、清風亭会談が行われる前の慶応2年(1866)秋から冬ごろに発信されたとされる、木戸孝允宛の龍馬の書簡の抜粋を紹介します。

 (前略)其節溝渕広之丞に御申聞け相成り候事件を、同国の重役後藤庄次郎へ一々相談候より、余程夜の明け候気色、重役共またひそかに小弟にも面会仕り候、十分論じ申し候。

 訳すと「溝渕広之丞が、彼に伝えた種々の事例を、土佐の重役後藤象二郎に全て伝えました。結果、土佐藩の考えも倒幕に向かいそうです。ようやく夜が明けそうです。・・・」

そうです。龍馬は、この清風亭会談より随分前から、内々に剣術修行時の同士でもある土佐藩役人溝渕広之丞らを使って、土佐藩の上層部に幕府が危険な状況にあること、倒幕への方向転換が必要であるという情報を既に伝える行動を起こしていたのです。土佐藩内の藩論を変えようとして・・です。

 龍馬の思惑通りに、土佐藩の考えが変わり、そして土佐藩代表の後藤が龍馬を使おうとしてきました。
これらは、すべて龍馬の計算通りに事が進んだ結果だったのです。
ドラマの龍馬は、会談時の戦術で後藤より上手でしたが、史実の龍馬は、会談までの戦略ですでに後藤の上を行っていたのです。
恐ろしき、龍馬・・・なのです。




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コメント
良く分かります。
ありがとうございます。
2010/10/09(Sat) 12:53 | URL | 太郎 | 【編集
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