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 龍馬とお龍さんが結ばれました。龍馬の言葉にもありましたが、龍馬は急ぎ始めました。薩摩への治癒の旅の傍ら長崎に寄り、矢継ぎ早に行動します。社中のメンバーに薩長同盟成立の報告をし、小曽根乾堂、グラバーら商人達に出資のお願いをする龍馬。幕府を倒す時期が近づいて来たことを実感したためか、自分の命が長くないことを悟ったためか・・・龍馬の心は読めませんでしたが。
 その急ぐ気持ちと、お龍さんを妻に迎える決心は、密接に関係していたのかもしれません。自分を献身的に支えてくれるお龍を妻に出来るのは、今でしかないと・・・。お龍さんにとっては、幸せなのか、不幸なのか。お龍さんも波乱万丈の人生がスタートしました。

【お龍さんは、いつ龍馬の妻になったのか?】
 今回のドラマは、寺田屋事件後の慶応2年(1866)2~3月頃の話になります。ドラマでは、龍馬とお龍さんは鹿児島に向かう途中に長崎に立ち寄り、慌ただしく過ごし、更には結婚の祝いまで行われました。
 ただ・・・史実では、龍馬らが長崎に立ち寄ったのは、慶応2年3月8日のわずか1日だけなのです。10日には、鹿児島に入っています。それも、長崎では自刃した近藤長次郎の墓参りなどを行ったとされており、祝言を行う時間などありませんでした。
 では、龍馬とお龍さんは、いつ夫婦になったのでしょうか。記録に残っているのでしょうか?
お龍さんの晩年の回顧録「反魂香(第2回、明治32年4月20日発行)」に、祝言をあげたときの話が記されています。

(元治元年)八月一日の夕方坂本が帰つてきました、で金蔵寺の住職智息院が仲人となつて本堂で内祝言をして始めて、新枕幾千代迄もと契りました、が此処にうかうかして居て敵に覚られては互の身の為めに能く無いと云ふので、種々相談の上、お貞は杉坂の尼寺へ、大一郎は金蔵寺へ、君江は神戸に滞在の勝へ、お良は伏見の寺田屋へ、いづれも預けて仕舞ました。

 なんと、元治元年(1864)8月1日とは、ドラマでの祝言の日からさかのぼることちょうど1年半です。史実では、そんな以前に、祝言をあげていたのです。場所は、京都の金蔵寺です。
ただ、内祝言(ないしゅうげん)ということですので、あまり公にせず内々に行ったようです。元治元年8月頃は、龍馬は神戸海軍塾塾生の傍ら、勝海舟の手足となって東奔西走していたころであり、気力体力が充実していた絶好調の時期だったと思われます。ある意味、勢いに乗ってお龍さんを妻にしたのかもしれません。
 実は・・・すでに龍馬とお龍さんが夫婦であったからこそ、龍馬はお龍さんが働く寺田屋を常宿とし、またお龍さんは、寺田屋事件で体を張って龍馬に急を知らせ、更には負傷した龍馬を献身的に介護したのだ・・・という解釈が出来るのです。

【高杉晋作の病状】
 高杉晋作が、吐血しました。
晋作は、慶応2年9月29日付けの井上聞多宛の書簡に次のように記しています。

小生事も戦争中に風邪に当たり、夫れより肺病の姿に相成り、既に四十日余りも苦臥罷りあり候、当口参謀の任は凡(すべ)て前原に托し、唯一図に保養のみに日を送り候(後略)

 この書簡の作成日付は、今回のドラマの時期より半年ほど後のものですので、ドラマでは史実より高杉の発病を早めてしまっているようです。
 病状は、肺病。つまり結核です。幕末の志士で結核に倒れた人物がもう一人、新撰組の沖田総司がいます。彼らは、子供のころからの病弱、あるいは大病を患っており、抵抗力の弱い人たちが罹患していたようです。
当時の結核は、「気から来る病気」とされ、気力を充実させていれば治るという、誤った解釈があったようで、遊郭などに行って女遊びをする患者もいたとか。これが結核を蔓延させる原因の一つだったとも言われています。
 病が進行し、先が危ぶまれる高杉晋作。彼の一挙手一投足を見逃さないようにしたいと思います。




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