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薩摩名義で、長州藩の蒸気船と銃器を購入する商談。龍馬達は、売り手のグラバー等のしたたかさに、商売の難しさを実感しながら、なんとか成立させましたね。
ただ、龍馬からその報告を受けた西郷隆盛と桂小五郎は、浮かぬ顔でした。薩摩と長州が手を結ぶということの重大さ、難しさを痛感している二人です。両藩が手を結ぶことに未だ半信半疑であり、またその後にどの様な苦難が待ち構えているか読めない・・・そのような複雑な思いが絡み合った表情の様でした。

【龍馬は、長崎にはいなかった?】
ドラマでは、龍馬が京都から長崎に移動し、薩摩藩名義の長州藩蒸気船と銃器類を調達するために、外国商人の間を走り回っていました。
しかし史実では・・・長州の伊藤俊輔や井上聞多が長崎に滞在し、蒸気船、銃器購入の交渉を行った、慶応元年(1865)7月~8月頃、龍馬はまだ京都に滞在していました。
従って、長州藩の武器購入のために主体的に関係者と調整を行ったのは、近藤長次郎や、龍馬の甥である高松太郎など、長崎に残る「社中」のメンバーでした。

特に近藤長次郎の活躍は、凄まじいものでした。(ドラマでも、龍馬の監視下という違いはあるものの、長次郎の活躍が描写されていました。)薩摩藩家老小松帯刀を説得して、長崎に入った伊藤俊輔や井上聞多を薩摩藩にかくまい、直ちに英国商グラバーと銃器類の購入の商談を成立させ、更には薩摩藩船で井上聞多を薩摩に案内するといったような、伊藤、井上の長州藩士に対して、とても手厚い対応を行いました。
ただ、全てがうまく行った訳ではなさそうです。
『維新土佐勤王史』によると以下のような問題も起きたようです。(現代語訳で示します。)

長州藩の海軍局から、「軍艦の購入は見直すべし。」との抗議があった。海軍局は、軍艦購入を一旦承諾したものの、藩庁は財政難であることを理由に拒んだ。また桂は、海軍局の了承なしに、二人を長崎に派遣しているが、これは海軍局を無視しているものだと抵抗があった。これについても調整した。

ただ、このような問題もうまく調整し、蒸気船ユニオン号(薩摩藩名桜島丸、長州藩名乙丑丸)の購入を成し遂げたのです。
この商談成立で、長州藩は、近藤長次郎を最大限に評価しました。しかし、ここから、謙虚さを失いつつある長次郎の迷走が始まってしまうのです。

【龍馬は、京都で何を・・・】
 実際は、長崎にいなかった龍馬。では、京都で何をしていたのでしょうか。
龍馬は、討幕に向けた薩長同盟の足固めとして、関係者への説得を継続していたと思われます。
当時から、京都伏見の寺田屋を拠点とし始めたようで、伊藤痴遊の著書「坂本龍馬 中岡慎太郎」に、寺田屋お登勢の娘、殿井力(とのいりき)の回顧録が記され、龍馬の私生活の一面を垣間見ることが出来ます。

母は、快く(龍馬の宿泊を)引き受けて、宿客一切謝絶して、二階へ匿っておきましたが、阪本さんは昼はグッスリ寝込んで、夜になると何処かへ出かけて往かれる。雨でも降ると、二階へ引きこもって、書見をして居なさる。たまには、私や妹のお春など引き立って、そばに遊びに行くと、
「よく来た。良いものを見せやう。」
とおもちゃのように、鉄砲を行李の中から取り出し、
「これは、ピストルというのだ。今度初めて長崎に来たんだが、もし江戸方の捕手が来れば、これで脅かしてやる。」
など言って、ニコニコ笑われました。
先生は、色黒く、目が光って随分怖い顔だったが愛嬌はあった。怪談話がお得意で、
「今日は雨が降るから、私が一つ怪談話をやらう。」
と私達をズラリと前に座らし、咳を一回して話し始める。
(後略)


どうでしょう。討幕、薩長同盟の周旋のために京都に入っているという、非常に危険な状況ながら、寺田屋の娘たちには、おもしろい“おんちゃん”である龍馬。
日常のプレッシャーから開放された、龍馬の優しい顔が思い浮かびます。




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