長崎での活動が中心となる第3部が、スタートしました。いや~、龍馬が変わってしまいました。目つきといい、行動の大胆さといい、前回までの龍馬と全く違う性格の人間に生まれ変わったようで、少々違和感を覚えましたが、まあ良しとしましょう。

ドラマでは、龍馬たちは、薩摩藩の藩船「胡蝶丸」に薩摩に向かう前に、長崎に立ち寄りました。
これは史実通りだと考えられます。胡蝶丸が、大阪を発って薩摩に到着する間の、慶応元年(1865)5月初旬、熊本藩士である横井小楠が、関係者に宛てた書簡に「龍馬が、私を訪問したいと言っていた。」というような内容が記されています。このことから、龍馬らは、一旦(1,2日程度)長崎に寄ったとされています。
 しかしながら、ドラマのように、丸山で高杉晋作や西郷隆盛らといさかいになりかけたり、トーマス・グラバーに、蒸気船の貸与を談判したなどの記録は残っていません。これは、創作です。
ちょっと、今回も創作が多かったかな・・・との印象を受けました。

【トーマス・グラバーとの談判は、創作?】
 トーマス・グラバーに、蒸気船の貸与を談判したという、事実は無いことを上述しました。しかし、少々ややこしいですが、これは全くの創作ではありません。
龍馬は、これに非常に良く似た行動を この「胡蝶丸」に乗る以前に、起こしているのです。

 後の海援隊士でもある土佐藩の千屋寅之助のいとこに、千屋金策(きんさく)という人物がいます。
この千屋金策が、元治元年(1864)後半頃(龍馬らが胡蝶丸にのる数ヶ月前)に次のような内容の記録を残しています。

勝先生塾
呼返シニ付逃テ 在江戸 坂本龍馬
在神戸 千屋虎之助
同   新宮馬之助
呼帰ニ付潜ムテ 在浪花 高松太郎
在神戸 近藤長次郎
在江戸 沢村惣之丞


 元治元年(1864)10月に、江戸に召還命令が下った勝海舟が神戸を離れた後、残された塾生のうち、戻る場所が無い龍馬らは、一度散り散りとなったようです。
そこで、今一度龍馬の居場所を確認すると「呼返シニ付逃テ 在江戸 坂本龍馬」ということで、土佐からの呼び返しがあったものの、それを無視し江戸に向かったのです。

 では、龍馬は江戸に何をしに行ったのでしょうか。ただ、逃げただけなのでしょうか。
答えは、薩摩藩家老である小松帯刀が、大久保利通に送った元治元年11月26日付の書簡に記されています。

神戸勝方え罷居候土州人、異船借用いたし航海之企有レ之、坂元龍馬と申人、関東え罷下借用之都合いたし候処、能ク談判も相付候よし。
(中略)
右の船参り候得ば、即乗込ニ相成候間、夫迄潜居之相談承り、余計之事ながら右辺浪人体之者ヲ以航海之手先ニ召仕候法は可レ宜と、西郷抔(など)滞京中談判もいたし置候間、大坂御屋敷え内々潜メ置申候。
(以下略)


ちょっと読みにくいので、現代語訳します。

神戸の勝海舟に使えていた土佐人が、外国船を借りて航海しようとたくらんでいるようだ。坂本龍馬という人物が、関東に下って外国船を借りることが出来るか先方の都合を確認したところ、問題なく調整が済んだらしい。
(中略)
この浪人達から、「借りた船が来ればすぐに乗り込みたいが、それまでは潜伏させてほしい。」との相談があった。余計な事ながら、これら浪人達を航海の手先にした方が良いのではと、西郷などが京都に滞在中にも相談していたものであり、大阪の御屋敷(藩邸)に潜伏させている。
(以下略)


 そうです。龍馬は、自分たちが活動するための船を調達することを目的に、江戸に行っていたのです。
一介の浪人、それも脱藩者です。普通なら、外国船を貸してくれるような奇特な人物なんていないと思うのですが、龍馬は、我々の想像を超えるような、驚くべき行動を起こしていたのです。
結局、外国船を借りることは出来なかったようですが、この行動力が、薩摩に「彼らを使ってみよう」と決断させた理由だったのではないかと考えます。
ドラマでは、薩摩に庇護された状況を背景に、勢いに乗ってグラバーに蒸気船貸与を申し出ましたが、史実の龍馬は、全く宛ても無くほぼ単身で江戸に向かい、蒸気船を探していたのです。
ドラマ以上に、驚くべき行動をとった龍馬が、史実には存在しています。




ウェーブワッシャー・皿ばね・薄板バネは特発三協製作所まで!
特発三協製作所

web展示会

ビジネスマッチングブログ

Twitterボタン



ブログ王
ブログ村
お仕事ブログランキング

クリック応援お願いします。
スポンサーサイト
テーマ:ブログ日記
ジャンル:ブログ
コメント
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事へのトラックバック