FC2ブログ
またまた大好きなブログからの引用です。



下関に寄らず京都に入った西郷隆盛を追って、龍馬(福山雅治)と中岡慎太郎(上川隆也)は京都に向かいました。
京都では、西郷との面会を待つ間、龍馬の周りに新撰組近藤勇や千葉重太郎らが現れ、少々はらはらしましたね。
そして、龍馬とのいざこざ後の夜明け前に、寺田屋を後にする近藤勇。「今から一人で歩いて壬生まで帰るの?結構遠いんですけど・・・」と思ったのは私だけでしょうか(笑)

【西郷隆盛が、下関に寄らなかった原因は?】
 ドラマでは、西郷隆盛が下関に寄らず薩長同盟が頓挫した原因は、「密偵が潜んでいた」こととしていました。
 では、史実ではどうでしょう。
正直・・・はっきりしていないのです。
「維新土佐勤王史」では、京都(の薩摩藩邸)からの急な連絡を受けたとたんに、下関に行くことをやめたとしています。

同十八日、豊後佐賀関に着するや、西郷等は、京師の急信に接するのを以って、馬関寄港の予定を変更せり、

また、その後の京都での龍馬、中岡慎太郎からの詰問に対しては、

両藩同盟の事に着手すべきを説くも、其の機未だ熟せず、

と、今更ですが、「時期尚早である。」と言っているのです。結局西郷は、一度龍馬や中岡の話に乗ったものの、藩内で反対意見が出てしまい、このまま下関に行くと収集が付かなくなるため、土壇場で一旦逃げた・・・ということが、正しい理由かもしれません。

【ついていない龍馬】
ドラマでは、龍馬と中岡慎太郎は、西郷を追って最短で京都に入ってきた雰囲気でした。ただ、史実では、京都に到達するまでの行程が結構大変だったようです。

 薩長同盟の周旋に失敗し、桂小五郎から罵倒された龍馬は、とにかく去ってしまった西郷を追いかけて、京都に向かいました。前回も、「疲れていた龍馬」を紹介しましたが、低下してしまった機運は、まだしばらく尾を引いていた様です。
 慶応元年(1865)閏5月29日に長州下関を出航した龍馬らは、閏6月14日に備前岡山に上陸し、移動手段を陸路に変更して、京都に向かっています。ここまで、下関から岡山間6~7百キロメートル程度の距離を2週間もかかっているということは、平均時速約2キロメートル、歩くより遅い船旅だったのです。
つまり、航海中、度重なる風雨、波浪に悩まされ、一向に前に進めなかったようです。西郷を追うために急いでいるのに、さぞかしもどかしかったことでしょう。
そして、陸路で岡山から京都に向かう途中、龍馬は次の和歌を詠んだのではないかと考えられています。場所は、明石大蔵(現、兵庫県明石市)の宿。

明石にて
うき事を ひとり明しの 旅枕 磯うつ浪も あわれとぞ聞

これは、京都国立博物館蔵の坂本龍馬詠草二にて実在する、龍馬の詠草です。
「うき事」とは「憂き事」、つまり「悩ましい事」を意味します。その憂き事を解決するために移動中の宿で、床について疲れを癒そうとしますが、外から聞こえる波の音さえ、「哀れ」と聞こえてしまう・・・。

龍馬にとって、憂き事「薩長同盟」周旋は、心が病んでしまいそうになるくらい、非常に重い使命となっていたのです。




ウェーブワッシャー・皿ばね・薄板バネは特発三協製作所まで!
特発三協製作所

web展示会

ビジネスマッチングブログ

Twitterボタン



ブログ王
ブログ村
お仕事ブログランキング

クリック応援お願いします。
スポンサーサイト



テーマ:ブログ日記
ジャンル:ブログ
コメント
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事へのトラックバック