11月15日に生を受け
11月15日に命を落とす

そう

坂本龍馬の誕生日&命日っす!
ME-NITI20121115.jpg
別に忘れやしないですけど

グループウェアには登録していますw

で、昨年の11月15日も
やっぱり、この命日の事は書いていましたwww

昨年のブログ←こちらをクリック



なんか受賞してました。

僕。

なんか受賞してましたw

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あー

なんか久しぶりに幕末ネタを書きます。


昨年やっていた「龍馬伝」を見ていた方は

幕末に詳しくなくてもご存じかと思います

トータス松本扮する
「ジョン万次郎(中濱 萬次郎:文政10年1月1日(1827年1月27日) - 明治31年(1898年)11月12日)」


お国は土佐
出身は中濱村(現在の高知県土佐清水市中浜)


彼・・・とお呼びしても良いのかどうか分かりませんが

彼は、簡単に説明すると

14歳の時に船で遭難し、無人島に漂着後

アメリカの捕鯨船に助けられ、そのままアメリカに渡り

日本に帰国後は日米和親条約にも関わり

万次郎が書いた漂流記

『漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)』は

坂本龍馬も大きく影響を受けた。

まぁ、はしょりまくって

こんな事をした人なんですが



昨日、関西ローカル番組「ビーバップハイヒール」で

日立グループのCMでお馴染み

「この~木なんの木」の
KONOKINANNOKI20110708.jpg
この木を

ハワイ オワフ島に植える事に

大きく影響を与えた人物であった。

と紹介されていました。



間接的だとは言え

ジョン万次郎→日立グループ
岩崎弥太郎→三菱グループ

三菱グループを作る事になる岩崎弥太郎に

大きな影響を与えた

坂本龍馬。



なんちゅー土地なんですか!

高知県はっ!!



ますます好きになりますわー


兵庫県に住んでいながら

高知最高!

ビバ高知っ!!


昨日は久々に幕末ネタを見たので

少々テンション上がりました!










さぁ、今週も今日で終わりです。


もう少しガンバるぜよ!





ほいでは。
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大政奉還が成立しました。これで、龍馬念願だった平和裏での江戸幕府の終焉が、実行出来る・・・と信じて良いのでしょうか・・・。
(ドラマでの二条城大広間のセット、よく出来ていました。若干質素な感じがしましたが、鴨居などもしっかり作られていて驚きました。)

 そして、龍馬は本当に四面楚歌となりました。徳川慶喜、西郷隆盛、木戸孝允、近藤勇、岩崎弥太郎・・・あらゆる方面の人物からねたまれる存在となってしまいました。次週はこの中の一体誰が龍馬を・・・。それともどんでん返しがあるのでしょうか。さあ、泣いても笑っても残すは来週のみ。

【なぜ、急転直下で大政奉還が成立したのか?】
 第15代将軍徳川慶喜の発した『大政奉還』。実に急転直下の出来事でした。260年以上続いていた徳川幕府の幕を閉じるには、非常にあっけないものでした。
この急転直下の理由は、何だったのでしょう。

答えは、ただ1つ。
『幕府にとって勝ち目の無い薩長連合の倒幕挙兵が、間近に迫っていた。』からでした。

 薩摩と長州は、慶応3年6月頃から挙兵倒幕に向けて動き出していました。
9月17日には、薩摩の大久保利通が長州藩入りし、木戸貫治らと会談します。翌日には藩主の毛利敬親らに接見し、薩摩と長州は、武力倒幕の方向で盟約を締結。倒幕の挙兵へのカウントダウンが始まりました。
1年前、長州一藩にさえ負けてしまった幕府軍が、薩摩も加わった薩長連合軍に対する勝算は、ほとんどありませんでした。従って、徳川側としては、戦争は避けるしかなかったのです。

 そこで、秘策が現れました。土佐藩が推す『大政奉還』です。
同じく9月初旬から、京都に上って大政奉還の周旋を開始していた後藤象二郎が、9月20日に幕府の大目付の永井尚志(玄蕃)から呼ばれます。
ここで、永井から発せられた言葉は、「大政奉還の建白書を提出したらどうか」という催促でした。このとき既に幕臣の一部は、「大政奉還」しか道が無いことを悟っていたのです。
そして10月3日、土佐藩の『大政奉還建白書』は、後藤象二郎らによって二条城に陣取る徳川側に正式に提出されたのです。内容は次のとおり。少しだけ読みやすいように訳しています。

誠惶誠恐、謹しんで建言仕候。天下憂世の士口を鎖して言はざるに馴れ候は、誠におそるべきの時に候。朝廷、幕府、公卿、諸侯、旨趣相違ふの状あるに似たり。誠におそるべきの至りに候。此のくは吾人の大患にして、彼の大幸也。彼の策ここに於てかなり候というべく候。かくの如き事態に陥り候は、その責畢竟誰に帰すべき哉。併し既往の是非曲直を喋々弁難すと雖も何の益かあらむ。唯願ふは大活眼、大英断を以て天下万民と共に、一心協力、公明正大の道理に帰し、万世に亘って恥ぢず、万国に臨て不愧の大根底を建てざるべからず。此旨趣、前月上京の砌にも追々建白仕候心得に御座候得共、何分阻隔の筋のみ有之、その内不図も旧疾再発仕、不得止帰国仕候。以来、起居動作とも不随意の事に成至、再上の儀暫時相調不申候ば、誠に残憾の次第にて、只管此事のみ日夜焦慮仕り罷在候。因て思慮の趣、一々家来共を以て言上仕候。唯幾重にも公明正大の道理に帰し、天下万民と共に、皇国数百年の国体を一変し、至誠を以て万民に接し、王政復古の業を建てざるべからざるの大機会と奉存候。猶又別紙御細覧被仰付度、懇々の情難黙止泣血流涕の至に不堪候。
  慶応三丁卯年九月 松平容堂


建白書の写真の一部は、下記URLでどうぞ。
◆大政奉還建白書の写真へジャンプ◆

また、この建白書と一緒に提出された副書には、龍馬の『船中八策』の内容が盛り込まれていました。

 龍馬も10月9日に京都に入り、大政奉還周旋のバックアップを行います。幕府の永井尚志(玄蕃)に会い、薩長が挙兵すると幕府は太刀打ちできないことを諭します。

 そして、建白の日から数えて10日後の10月13日、徳川慶喜は、二条城に諸藩40藩の家老等を招集し、『大政奉還』の意向を表明したのです。薩長の倒幕の盟約から、1ヶ月足らず・・・江戸幕府は雪崩のように崩れて行ったのです。


【大政奉還建白の裏で計画された、にせ金作り】
 この大政奉還建白の周旋が行われている最中、龍馬たちは驚くような計画を立てます。
10月10日付けの後藤象二郎宛の龍馬の書簡を紹介します。現代語訳で紹介しましょう。

先日、建白書にて国を一つにし、政治を一新するような提案をしましたが、まずは将軍職をどうするかという話はいつ行っても良いのです。まず実行しないといけないことが一つあります。それは、江戸の銀座を京都に移すことです。これさえ実行すれば、将軍職をそのままにしても、将軍など中身の無いものになり、恐れるに足らずです。(後略)

銀座、つまり通貨の発行機関を江戸から京都に移せば、江戸は自然と衰退する・・・と龍馬は言っています。
龍馬は、通貨の流れを掌握することで、世の中をコントロール出来る事を熟知していたのです。

 また土佐藩士岡内俊太郎が、土佐藩重臣の佐々木高行に宛てた書簡に次のような記載があります。これも現代語に訳してみましょう。

龍馬の考えにより、薩摩藩において作り始めた二歩金の模様、仕上がり品を受け取って来ました。本藩においても、薩摩と同様の品を作らないと出遅れてしまう。藩内で調整して、薩摩と同じ方法を習得したいと私から申し出ましょう。ただこれを作るのは、なかなか難しいようで・・・(後略)

なんと、龍馬の考えで、薩摩で金貨の製造に着手していたのです。倒幕直後の通貨安定のためなのか、にせ金を流通させて、実権を握ろうとしていたのか定かではありませんが、先を見据えた龍馬のしたたかさには脱帽します。




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大政奉還の建白書を書く山内容堂。藩のTOPが藩を消す建白書を出すということは、自分自身を消すということ・・・。
自分が支配する時代は終わったことを悟ったような表情で、建白書を書く容堂の姿に、感動を覚えました。本当にこれから世の中が変わるという、瞬間を見たような気がしました。

【後藤は居なかったし、土佐はすでに大政奉還の方針だった・・・】
 ドラマでは、大政奉還論の採用に悩む山内容堂を説得するために、龍馬と後藤象二郎が直々に訴えるという内容でした。しかし、史実はだいぶ異なります。
龍馬が、土佐に戻ってきた慶応3年9月末ごろ、後藤象二郎は、京都で活動をしていました。その活動の目的は、「大政奉還の周旋活動」でした。
つまり、このとき既に山内容堂をはじめとした土佐藩の思想は、大政奉還論で基本的に統一されていたのです。後藤は龍馬が土佐に現れる数週間前の9月1日に京都向けて土佐を発っています。
一方、龍馬の土佐訪問の目的は、「言葉による大政奉還の周旋のみではなく、武力を背景にした圧力」を幕府に加えるべきだということを藩の方針とさせるため。大政奉還の説得ではありませんでした。
 更に史実では、龍馬が容堂に直接会うことは無く、土佐藩参政の渡辺弥久馬をつかまえて、ライフル銃の購入を迫ったのです。龍馬と渡辺の会談後、土佐藩重役の会議を行う・・・ということが数日間繰り返されたそうです。
そして、9月27日の山内容堂を含めた土佐藩重役会議で、大政奉還論で進むことを再確認し、更にライフル銃の購入、万一のための軍備増強などの方針が決定したのです。
龍馬の思い通りの結果となったのです。

【龍馬、実家滞在中のハプニング】
 慶応3年(1867)9月。龍馬は、文久2年(1862)3月に土佐を脱藩してから、約5年半ぶりに土佐の実家に戻ってきました。
史実の帰郷では、どのようだったのでしょうか。当時の史料などを振り返ってみましょう。

 まずは、土佐藩士の武勇伝「維新土佐勤王史」では、龍馬の帰郷を次のように記しています。

今度こそは我家をも訪ふて、兄姉と一宵の歓を尽さやばと、そのまさに発せんとする前一夕、京侍の戸田雅楽を伴ひて、己が生長せる本丁兄権平の宅を叩きて、姉の乙女とも、絶えて久しき対面に及び、神祭に醸せし土佐の白酒に、うましうましと下打ち鳴らし、主客ともに談笑のうちに語り明かしぬ。

龍馬は、同士も引き連れて坂本家に帰ったようです。迎えた権平、乙女らも、龍馬たちにご馳走をして楽しく過ごしたことが手に取るようにわかります。

 次に、土佐藩出身の海援隊士であり、龍馬と長崎から同行して土佐に入った岡内俊太郎が、土佐藩高官の佐々木高行に宛てた書簡があります。

さて龍馬、高知へ旅人となりて滞留中、夜中密かに上町の自宅に参り、実兄権平、姉乙女、姪春猪たちと五年ぶりにて面会、旧を語り、戸田雅楽も参り、権平より鍔(つば)を貰ひ、大いに喜び申候。種々の奇事も御座候。

龍馬は、権平から刀の鍔(つば)を貰ったようです。なんといっても5年半ぶり、プレゼントを渡したくなる兄の気持ちは良く分かります。
この書簡で気になるのが、最後の「種々の奇事も御座候。」一体何があったのでしょう?

 先の史料にも出てきた戸田雅楽(後の尾崎三良)が、明治なって次のように回想しています。

坂本宅に二三日逗留をいたして、その間に土佐の有志家と出会って、あれこれ話を致しましたが、
(中略)
元治元年甲子の時には討死をした人が種々あるが、その人の未亡人などが尋ねてきて、愁歎話で京都の変動は三条公などの冤罪を訴えるために出て、私の良人などが殺されました。何卒これ憐れな情けを、三条公に申し上げて貰いたいというような人が来ました。みな若い美人で、そぞろに涙をこぼしまして、それでよく覚えて居ります。


元治の時とは、禁門の変などが起こった年。なんと・・・どこから聞きつけたのか、当時命を失った土佐勤王党の志士たちの奥さんたちが、坂本家に訪れて「夫の命が奪われた無念さを公家の三条実美に伝えて」と訴えたのです。それも「皆な若い美人で」とあるので、複数の人数の様です。
突然、訴えられても如何ともし難い・・・きっと龍馬も面食らったことでしょう。

家族との最後のひと時も、ハプニングが舞い込み、慌ただしく時間が過ぎて行ってしまったのです。




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 船中八策が、八人のアイデアの集約だったとは・・・恐れ入りました。木戸孝允、横井小楠、吉田東洋、高杉晋作、勝海舟、武市半平太、久坂玄瑞、河田小龍・・・これまでの彼らの言葉を吸収した龍馬が、船中八策をまとめあげた。そう彼らの代返者、これが龍馬の真骨頂なのです。
 船中八策に続き、薩土盟約の締結、下僕藤吉の登場と、ドラマがクライマックスに向けて、どんどん進んでいることが、否が応でも思い知らされました。
次が見たいという思いと、終わりに近づく寂しい思いと・・・複雑な心境です。

【船中八策をまとめたのは、龍馬だけではない??】
 龍馬がまとめあげたとされる『船中八策』。
ドラマでも龍馬が説明をしていましたが、今一度、実際の内容を記してみましょう。

一、天下ノ政権を朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。
一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。
一、有材ノ公卿・諸侯及天下ニ人材ヲ顧問ニ備ヘ、官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ニ官ヲ除クベキ事。
一、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ニ規約ヲ立ツベキ事。
一、古来ニ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ニ大典ヲ撰定スベキ事。
一、海軍宜シク拡張スベキ事。
一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。
一、金銀物貨宜シク外国ト平均ニ法ヲ設クベキ事。
 以上八策ハ、方今天下ノ形勢ヲ察シ、之ヲ宇内万国ニ徴スルニ、之ヲ捨テテ他ニ済時ノ急務アルベシ。イヤシクモ此数策ヲ断行セバ、皇運ヲ挽回シ、国勢ヲ拡張シ、万国ト並立スルモ亦敢テ難シトセズ。伏シテ願ハクハ公明正大ノ道理ニ基ヅキ、一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン。


 ドラマでは、龍馬が書き上げたという演出でしたが、実際はどうなのでしょう。
 実は、この『船中八策』、原稿や写しなどは、一切残っていません。
この八策は、ドラマにも度々出てくる、記者兼小説家の坂崎紫瀾(さかざきしらん)著「坂本龍馬海援隊始末二」に以下の前書き続いて記されているのみ、なのです。

慶応三年丁卯六月十五日、後藤初テ大政返上の建白ヲ藩論トスル二決ス。龍馬為メ二長岡謙吉ヲシテ、八策ヲ草セシム。中岡日記二曰ク、同十五日晴、後藤面会聞、昨夜政府議論決ス云々。才谷面会云々、所謂八策ナルモノ左ノ如シ。

 つまり、龍馬直筆の原稿などは残っておらず、唯一記されている史料においても、龍馬本人ではなく海援隊士である長岡謙吉が、龍馬の指示により起草したとしています。
つまり、『船中八策』は、長岡謙吉がまとめ上げたものでした。
 長岡謙吉はドラマでは表に出てきませんが、医師の父親を持つため医学などの知識があり、また蘭学にも長けていました。更には、後に『藩論』という、新しい国づくりを示す書物も出版しています。長岡謙吉は、海援隊きっての知識人であり、船中八策起草の適任者だったのです。

 では、龍馬はこの八策作りにどのような功績を残したのでしょうか?
恐らく、八策をまとめ上げようと、アイデアを出したのは龍馬でしょう。
そして、龍馬自身が書き記した、『船中八策』の広報版とも言える『新政府綱領八策』を用いての周旋活動でしょう。

第一義 天下有名ノ人材ヲ招致シ 顧問ニ供フ
第二義 有材ノ諸侯ヲ撰用シ朝廷ノ官爵ヲ賜ヒ 現今有名無実ノ官ヲ除ク
第三義 外国ノ交際ヲ議定ス
第四義 律令ヲ撰シ 新ニ無窮ノ大典ヲ定ム 律令既ニ定レバ諸侯伯皆此ヲ奉ジテ部下ヲ率ス
第五義 上下議政所
第六義 海陸運局
第七義 親兵
第八義 皇国今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス

右預メ二三ノ明眼士ト議定シ諸侯会盟ノ日ヲ待ッテ云々
○○○自ラ盟主ト為リ 此ヲ以テ朝廷ニ奉リ 始テ天下万民ニ
公布云々 強抗非礼公議ニ違フ者ハ断然征討ス 
権門貴族モ貸借スルコトナシ
慶応丁卯十一月 坂本直柔



sentyu-hassaku20101024.jpg


龍馬は、この『新政府綱領八策』を手に持ち、土佐藩、長州藩、薩摩藩の間を駆け巡ったのです。




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今回は、ドラマを見てすっきりした気持ちになりましたね。徳川御三家の大国紀州藩と渡り合う、龍馬たち。長崎の花街から発信された「船を沈めた その償いは 金をとらずに 国をとる よさこいよさこい」の俗謡は、町中に広がり、土佐藩は圧倒的な支持を得ることになりました。
「世論を味方につける。」という作戦は、現代においては頻繁に用いられる手法ですが、当時としては画期的だったでしょう。こんな作戦を企てられる龍馬は、今さらながらですが・・・すごい!

【一番損をしたのは、大洲藩??】
土佐藩は、見事に紀州藩から賠償金を得ることに成功しました。いろは丸の船価と、当時の積み荷の値段の合計で、8万3千両とも言われています。
ただ、その後も種々調整があり、結果的に7万両まで減額されたようです。

そして、船価のうち、大洲藩が購入先に対して未払いの金額は、紀州藩が直接購入先に支払うこととなり、支払い済の船価と積み荷の値段の合計、4万2千両が土佐藩に支払われることとなりました。
大洲藩が支払い済の船価は、約1万両。これは大洲藩に返されるはずなのですが、どうも結局返ってこなかったようなのです。

明治4年(1871)、大洲藩で非常に大きな百姓一揆が発生しました。なんと、一揆を起こした農民の中に商人も多数おり、この商人たちが「いろは丸の船代として、貸した金が戻ってこない。その恨みだ。」と息巻く人たちがいたそうです。
いろは丸事件後に、大政奉還、王政復古と世の中が大きく変わってしまい、お金の流れもうやむやになってしまったのでしょう。一説には、岩崎弥太郎が懐に入れてしまったという話もあるようですが、定かではありません。
結局、一番損をしたのは、何も非が無いのにお金を取られた挙げ句に、船の影も形も無くなってしまった大洲藩だったのかもしれません。

最後に、若干話題を変えますが、龍馬が、兄権平さんにいろは丸事件の顛末を報告した書簡(慶応3年(1867)6月24日付)があります。その内容のうち、一部を抜粋します。

皆人の申し候には、此龍馬が船の論たるや、日本の海路定則を定めたりとて、海船乗りらは聞きに参り候。御笑い遣わさるべく候。
龍馬は、いろは丸事件の談判の勝利で、名を世の中に一気に広めることとなりました。名を広めた結果が、今後の龍馬の行く末を左右することとなります。





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 高杉晋作が逝きました。長州という荒々しい国の中で、ある時は激しく、ある時はスマートに人生を全うしました。満年齢でいうと、わずか27歳と少しだった命。非常に太く短い人生でした。
 一方、龍馬らは海援隊発足と、大洲藩所有の蒸気船『いろは丸』で初仕事に挑みます。順風満帆で船出した海援隊。前途は如何に。

【龍馬と高杉晋作、心と心の通じ合い】
 ドラマでは、龍馬は何度も高杉晋作と会う機会がありました。会って直接話をし、お互いの行動を見ながら親密な関係となっていきました。では、史実ではどうでしょうか。
 記録に残っている限りでは、龍馬と高杉が面会しているのは、2回のみです。
1回目が、慶応元年10月、龍馬が長州藩馬関で桂小五郎と会談した時に、高杉も同席していました。会談の目的は、薩長同盟の周旋。薩摩から提供される予定である食料の購入に関する会談でした。この時に、龍馬は高杉からピストル(スミス&ウェッソン)を贈られています。
そして2回目が、慶応2年の第二次長州征伐での馬関戦争。当時の亀山社中が参戦した時に、高杉と合流しています

 わずか2回しか会ってはいませんが、2人の関係は、出会いの回数ほど希薄ではなかったと考えられます。最初の出会いで、ピストルの寄贈があったということは、直ぐに意気投合したことが容易に推測できるわけです。
では、なぜ二人は意気投合出来たか・・・。それは、お互い楽しく生きることが出来る世の中を切望していたからだと考えます。

 高杉は、死の直前に次のような辞世の句を詠んでいます。

おもしろき こともなき世に おもしろく

そして、見舞いに来ていた女性勤王家野村望東尼が、下の句を詠みました。

すみなるものは 心なりけり

(高杉の句は、一般的に「おもしろき こともなき世を おもしろく」という具合に「世を」と表現されることが多いですが、正しくは「世に」です。1文字の違いで、意味が大きく変わってしまうので、要注意です。)

そうです。高杉は、「面白くない世の中でも、面白く生きていきたい。」と。
そこで望東は、「面白いか面白くないかは、自分の考え次第です。」と返したのです。

高杉の「面白き」ことのひとつに、外国(欧米)への留学がありました。海外に出て、多くの知識を得たい。彼は、何度も欧米への留学を計画しましたが、実現することは出来ませんでした。

龍馬も、海の向こうの政治や文化を知りたいという願望を強く持っていました。
お互いに「日本から外に出て活躍したい。」といったような夢を語り合って、意気投合したことでしょう。
龍馬と高杉晋作は、同じ夢を実現する・・・という思いで、つながっていたのです。

そして、龍馬は、高杉晋作から夢を託されました。夢を実現するためには、もたもた留まることなどできません。龍馬は、全力で駆け出しました。




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 今回は、よく出来ていました。ハラハラ、ドキドキの清風亭会談。会談の背景は、少々史実と異なりますが、お元が同席していたり、それなりに史実に忠実でした。面白かった!もう1回見よう(笑)

 清風亭での龍馬と後藤象二郎の会談。実現したのは、慶応3年(1867)1月13日頃とされています。慶応3年・・・いよいよ龍馬ラストの年です。ドラマもラストに向けて、佳境に入ってきました。

【龍馬と後藤象二郎が急接近した訳・・・龍馬は後藤に利用された?】
 清風亭会談を取持ったのは、他藩の状況調査に来ていた溝渕広之丞と、土佐商会の松井周助と言われています。つまりこの会談は、土佐藩側、後藤サイドが最初に言い出したようです。龍馬の気持ちを和らげるために、龍馬が懇意とするお元を会談に同席させたのも、後藤サイド。では後藤は、この会談にどのような思惑を持っていたのでしょうか。

 武市半平太ら土佐勤王党が瓦解した後、土佐藩の藩論は「公武合体(朝廷と幕府が共同で政治をつかさどる)」でした。しかしながら、長州征伐の失敗など幕府に陰りが見え始めた慶応2年(1866)の夏頃から、後藤象二郎など土佐藩の首脳たちは、積極的に長崎や長州などに政治状況の調査に出向いています。そこで、幕府の力が急速に弱まっている状況を把握し、早急に現在の「公武合体」論から「倒幕」論に、藩論を方向転換する必要性を認識したのです。実際、首脳の中には、既に「倒幕」を進言する者もいたようです。
 種々協議の結果、土佐藩の藩論は「倒幕」となりました。そして「倒幕」の主導的存在になっている薩摩、長州と肩を並べ、少し以前の「薩長土」と言われる立場を戻そうと、画策がねられました。
そして、薩摩・長州と接近するための手段として後藤象二郎が考えたのが、両藩に精通している龍馬を利用することでした。
そう、清風亭会談は、龍馬を利用するために後藤が準備したものだったのです。

この清風亭会談後の龍馬の言動が、残されています。
『土佐維新勤王史』によると次のようです。

 彼と我とは昨まで刺さば突ふと云う敵同士なるに、敢えて一言も既往の事に及ばず、唯前途の大局のみを説くは、頗(すこぶ)る要領を得たり。是れ其の一つ。又酒座の談柄をば、いつも自己を中心にする様に惹(ひ)き向ける所は、なかなか才気に富めり。是れ其の二つ。

 龍馬は、会談時の後藤の印象を「過去のことは振り返らず、将来の方向性を述べるばかりで、すこぶる同感した。」と社中の仲間に伝えました。龍馬は、後藤の発言に感化されたようです。
これだけを読むと、後藤の思惑通りに龍馬が反応したように思えます。

しかし・・・。実は、龍馬の方が上だったのです。

 発信日は定かではありませんが、清風亭会談が行われる前の慶応2年(1866)秋から冬ごろに発信されたとされる、木戸孝允宛の龍馬の書簡の抜粋を紹介します。

 (前略)其節溝渕広之丞に御申聞け相成り候事件を、同国の重役後藤庄次郎へ一々相談候より、余程夜の明け候気色、重役共またひそかに小弟にも面会仕り候、十分論じ申し候。

 訳すと「溝渕広之丞が、彼に伝えた種々の事例を、土佐の重役後藤象二郎に全て伝えました。結果、土佐藩の考えも倒幕に向かいそうです。ようやく夜が明けそうです。・・・」

そうです。龍馬は、この清風亭会談より随分前から、内々に剣術修行時の同士でもある土佐藩役人溝渕広之丞らを使って、土佐藩の上層部に幕府が危険な状況にあること、倒幕への方向転換が必要であるという情報を既に伝える行動を起こしていたのです。土佐藩内の藩論を変えようとして・・です。

 龍馬の思惑通りに、土佐藩の考えが変わり、そして土佐藩代表の後藤が龍馬を使おうとしてきました。
これらは、すべて龍馬の計算通りに事が進んだ結果だったのです。
ドラマの龍馬は、会談時の戦術で後藤より上手でしたが、史実の龍馬は、会談までの戦略ですでに後藤の上を行っていたのです。
恐ろしき、龍馬・・・なのです。




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第二次長州征伐。自らの藩を守るため、日本を変えるためという高い志を持ちながら戦う長州軍に対し、目的意識の薄い幕府軍との戦いは、結果が歴然としていました。
高杉晋作率いる奇兵隊の奇襲作戦も功を奏し、長州軍が勝利をおさめ、龍馬率いる亀山社中も、馬関の戦いに参戦し、長州軍勝利に貢献。

 また、龍馬は戦をせずして政を朝廷に返還することを「大政奉還」と呼ぶことを初めて知りました。
これから、大政奉還に向けた龍馬のラストスパートが始まります。

【龍馬は、ユニオン号に乗ってどの程度戦ったのか?】
 今回のドラマの馬関での幕府軍との戦いでは、龍馬はユニオン号に乗船し、自ら参戦していました。
戦術を指示する指揮官として、非常にかっこよく仕事をこなしていました。
ただ、龍馬らは、小倉藩に向かって大砲を少し放っただけのようにも見えました。もっと、活躍したはず・・・。史実を調べてみましょう。

龍馬ら土佐の志士の武勇伝を記した「土佐維新勤王史」では、馬関戦争での龍馬の参画ぶりを次のように記しています。

この日坂本は、阿弥陀寺民家の屋上に登り、対岸の戦況を眺望す。敵の砲台たちまち撃破せされ、田の浦沿岸の大小船舶三百余隻を焼き、紅紹天にみなぎりて海波に映じ、すこぶる壮観を極む。

な、なんと。龍馬は、小高い丘の上の民家の屋根に上り、戦闘を見学していたと記されています。

また、慶応2年(1866)12月4日付、兄権平他宛の書簡では、地図を用いてとても客観的に戦況を記しているものの、自らがとった戦闘行動などは全くと言ってよいほど記されていないのです。
また、同じく慶応2年7月4日付、木戸孝允宛の書簡では、「また次も、野次馬をさせてくれ。」と発言しています。

御別後、お郡まで参り候所、下の関ハ又戦争と弟思ふに、どうぞ又ヤジ馬はさしてく礼まいかと、早々道お急ぎ度、御さしそへの人ニ相談仕候所、随分よろしかるべしとて夜おかけて道お急ぎ申(後略)

 先頭に立って戦う龍馬もかっこ良いかもしれませんが、屋根の上から、亀山社中の部下たちが活躍する姿を頼もしげに見る龍馬もかっこ良いと思いませんか。




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 日本人初のhoneymoon、新婚旅行と言われている、龍馬とお龍の鹿児島旅行。
 この鹿児島旅行で最も有名な霧島山登山。実際に、霧島山での登山ロケだったそうですが、テレビで見ていても絶景でした。次々と行きすぎる霧は、とても神秘的。龍馬は、乙女姉さんへの手紙で「険しすぎて、泣きそうになりながら、登った。」と述べていますが、まさに当時そのままの情景だと感動しました。ぜひ一度訪れたい・・・と皆さんも思われたのではないでしょうか。
そして、あの逆鉾の引き抜きが、龍馬の決意の引抜きだったとは、予想外の演出でした。その理由は、以下に。

【逆鉾を抜いたら火が降ってくる!】
 ドラマで、龍馬が霧島山登山の頂上で引き抜いた逆鉾(さかほこ)。
これは現在でも『日本の三奇』として有名な『天逆鉾(あまのさかほこ)』です。
 鉾とは、やりの様な形をした古代の武器ですが、大国主神(おおくにぬしのかみ)が、「このような武器を使うような争いが、日本で起こらないように。」という願いを込めて、鉾を逆さに突き立てたという伝説があります。そもそも、とても霊験あらたかな場所なのです。
ドラマでは、龍馬決意の引き抜きでしたが、争いが起こらないように願って設けられた逆鉾を引き抜いたら、龍馬の思想に反するんですけど・・・。

 史実では、そんな行動があったのでしょうか?一体誰が言い出したのでしょうか?
龍馬、お龍さんそれぞれが、天逆鉾を引き抜いたことを回想しています。実際に引き抜いた様ですね。

 龍馬は、慶応2年(1866)12月8日付、乙女姉さん宛の書簡は、この鹿児島での生活を克明に報告しています。特に霧島山の登山については、霧島山の鳥瞰図や天逆鉾のスケッチなどを駆使して、面白おかしく乙女姉さんに報告しています。例の逆鉾引き抜き行為の該当文章を抜粋してみましょう。

此(この)サカホコハ少シうごかして見たれバ、あまりにも両方へ、はな(鼻)が高く、候まま両人が両方よりはなをおさへて、エイヤと引きぬき候時ハわずか四・五尺斗(ばかり)のもの二て候間又々本の通りおさめたり

龍馬は、「二人で引き抜いた。」と言っています。では、お龍さんはどうでしょうか。

度々出て来るお龍さんの晩年の回顧録。汗血千里駒後日譚と反魂香2つの回顧録に出てきます。

◆汗血千里駒後日譚
鉾の上は天狗の面を二ッ鋳付けて一尺あまりもありましょうか。から金で中は空で軽いのです。
私が「抜いてみとうございます。」と言うと
龍馬は「やってみよ。難しけりゃ手伝ってやる」
と笑っておりましたが、田中さん(同行者)は色を青くして、
「そ、それを抜けば火が降ると昔からいってある。どうぞやめて下さい。」と言う。
私は「なあに、大丈夫」と鉾の根の石をさっさと払いのけ、ひと息に引き抜いて倒したままで帰りました。

◆反魂香
つまらない事ですが、お良が霧島山へ登つて逆鋒を抜いたのを、帰って龍馬に話をするとひどく叱られて、女の癖に突飛な事はつつしみなさい、と、たしなめられて流石のお良も、後悔して以後は力業をしなかったと、他書に書いてありますが、実は龍馬もー所に山へ登って、面白半分手伝つて抜いたのです


汗血千里駒後日譚では、お龍さん一人でやったと言っています、一方、反魂香では、龍馬も手伝ったと。

 総括すると、主導者はお龍さん、龍馬は手伝った・・ということでしょうか。
それ以上に気になるのは、汗血千里駒後日譚で、「ひと息に引き抜いて倒したままで帰りました。」という内容。倒したまま帰ってしまったとは、霧島山が本当に怒って、火を噴いたかもしれません。
どうも、史実のお龍さんは、ごく普通の女性とは違う、変わった一面を持っていたようです。

【ワイルウェフ号の遭難】
 龍馬はまた同志を失うこととなりました。池内蔵太(いけくらた)。土佐藩士であるものの、尊皇攘夷の強い志から、脱藩後は長州を軸足に活動し、天誅組の挙兵、禁門の変など数々の戦を経験した強者でした。約1年前から龍馬と接触を密にし、社中にも名を連ねて、これからの活躍を期待されていた矢先の不幸でした。

 慶応2年3月頃に、龍馬の甥でもある社中隊員、高松太郎に、龍馬が宛てた書簡の内容を抜粋します。

細左馬(池内蔵太の変名)かねて海軍の志あり、かつて馬関を龍と同伴にて上京致し候。
故ありて薩に下らんとす。今幸ひに太郎兄が帰長の事を聞く。今なれば彼のユニオン号左馬を乗せても宜しかるべく、左馬ことは海軍の事には今は不巧者といえども、度々戦争致し候ものなれば、随分後にはたのもしき者とも相成り候べしと存じ候。


龍馬は、内蔵太の才能を見抜いて、将来を期待していたことが良くわかります。池内蔵太享年26歳の若さでした。




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 龍馬とお龍さんが結ばれました。龍馬の言葉にもありましたが、龍馬は急ぎ始めました。薩摩への治癒の旅の傍ら長崎に寄り、矢継ぎ早に行動します。社中のメンバーに薩長同盟成立の報告をし、小曽根乾堂、グラバーら商人達に出資のお願いをする龍馬。幕府を倒す時期が近づいて来たことを実感したためか、自分の命が長くないことを悟ったためか・・・龍馬の心は読めませんでしたが。
 その急ぐ気持ちと、お龍さんを妻に迎える決心は、密接に関係していたのかもしれません。自分を献身的に支えてくれるお龍を妻に出来るのは、今でしかないと・・・。お龍さんにとっては、幸せなのか、不幸なのか。お龍さんも波乱万丈の人生がスタートしました。

【お龍さんは、いつ龍馬の妻になったのか?】
 今回のドラマは、寺田屋事件後の慶応2年(1866)2~3月頃の話になります。ドラマでは、龍馬とお龍さんは鹿児島に向かう途中に長崎に立ち寄り、慌ただしく過ごし、更には結婚の祝いまで行われました。
 ただ・・・史実では、龍馬らが長崎に立ち寄ったのは、慶応2年3月8日のわずか1日だけなのです。10日には、鹿児島に入っています。それも、長崎では自刃した近藤長次郎の墓参りなどを行ったとされており、祝言を行う時間などありませんでした。
 では、龍馬とお龍さんは、いつ夫婦になったのでしょうか。記録に残っているのでしょうか?
お龍さんの晩年の回顧録「反魂香(第2回、明治32年4月20日発行)」に、祝言をあげたときの話が記されています。

(元治元年)八月一日の夕方坂本が帰つてきました、で金蔵寺の住職智息院が仲人となつて本堂で内祝言をして始めて、新枕幾千代迄もと契りました、が此処にうかうかして居て敵に覚られては互の身の為めに能く無いと云ふので、種々相談の上、お貞は杉坂の尼寺へ、大一郎は金蔵寺へ、君江は神戸に滞在の勝へ、お良は伏見の寺田屋へ、いづれも預けて仕舞ました。

 なんと、元治元年(1864)8月1日とは、ドラマでの祝言の日からさかのぼることちょうど1年半です。史実では、そんな以前に、祝言をあげていたのです。場所は、京都の金蔵寺です。
ただ、内祝言(ないしゅうげん)ということですので、あまり公にせず内々に行ったようです。元治元年8月頃は、龍馬は神戸海軍塾塾生の傍ら、勝海舟の手足となって東奔西走していたころであり、気力体力が充実していた絶好調の時期だったと思われます。ある意味、勢いに乗ってお龍さんを妻にしたのかもしれません。
 実は・・・すでに龍馬とお龍さんが夫婦であったからこそ、龍馬はお龍さんが働く寺田屋を常宿とし、またお龍さんは、寺田屋事件で体を張って龍馬に急を知らせ、更には負傷した龍馬を献身的に介護したのだ・・・という解釈が出来るのです。

【高杉晋作の病状】
 高杉晋作が、吐血しました。
晋作は、慶応2年9月29日付けの井上聞多宛の書簡に次のように記しています。

小生事も戦争中に風邪に当たり、夫れより肺病の姿に相成り、既に四十日余りも苦臥罷りあり候、当口参謀の任は凡(すべ)て前原に托し、唯一図に保養のみに日を送り候(後略)

 この書簡の作成日付は、今回のドラマの時期より半年ほど後のものですので、ドラマでは史実より高杉の発病を早めてしまっているようです。
 病状は、肺病。つまり結核です。幕末の志士で結核に倒れた人物がもう一人、新撰組の沖田総司がいます。彼らは、子供のころからの病弱、あるいは大病を患っており、抵抗力の弱い人たちが罹患していたようです。
当時の結核は、「気から来る病気」とされ、気力を充実させていれば治るという、誤った解釈があったようで、遊郭などに行って女遊びをする患者もいたとか。これが結核を蔓延させる原因の一つだったとも言われています。
 病が進行し、先が危ぶまれる高杉晋作。彼の一挙手一投足を見逃さないようにしたいと思います。




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慶応2年1月24日、龍馬の人生での最大級の危機、寺田屋騒動が勃発しました。なかなか臨場感あふれる龍馬、三吉慎蔵と伏見奉行所の追手の争いでした。手に重傷を負った龍馬。材木置き場で、身動きが取れなくなった龍馬。まさに実際の龍馬はこんな感じだったんだろう。助かってくれ・・・と手に力が入るシーンでした。良い内容でした。

【お龍さんは、裸だったのでは?】
お龍さんが、幕府の追っ手が来たことを龍馬に知らせために、風呂場から2階にかけ上がるシーン。お龍さんは、襦袢(じゅばん)を一枚羽織っていました。
一般的にこの有名なシーンは、お龍さんが“全裸”で龍馬に急を知らせた・・・というイメージが定着しているのではないでしょうか。これは、過去の様々な小説、映画、ドラマで演出されているからでしょう。特に最も影響が大きいのが、司馬遼太郎先生著の『竜馬がゆく』。この小説では、次のように表現されています。

(捕史。-)と、思ったとたん、おりょうはそのままの姿で湯殿をとびだした。自分が裸でいる。などは考えもしなかった。
裏階段から夢中で二階へあがり、奥の一室にとびこむや、「坂本様、三吉様、捕り方でございます」と小さく、しかし鋭く叫んだ。
竜馬はその言葉よりも、むしろおりょうの裸に驚いた。昂奮しているせいか、目にまばゆいほどに、桃色に息づいている。
「おりょう、なにか着けろ」と言いすて、三吉慎蔵をふりかえった。


 では、史実では、どうだったのでしょうか。最も参考になるのが、当事者、つまり龍馬、お龍さんの証言です。彼らは個別に当時の状況を記しています。まずは、お龍さんから。
『続反魂香』、『千里駒後日譚』、『阪本龍馬の未亡人』という3種類のお龍さんの晩年の回顧録それぞれに、このシーンの回想が記されています。

『続反魂香』
 お良は今はー所懸命彼奴等が行かぬ其内に早く知らせやうと、帯引き締むる間も遅しと、兼て造へて置いた秘密の階子から、二階へ飛び上るが早いか、四人の居る居間へ転げ込むで、ただ大変でいます、・・・

『千里駒後日譚』
 騒ぐと殺すぞと云うから、お前さん等に殺される私ぢゃない、と庭へ飛び降りて濡れ肌に袷(あわせ)を一枚引っかけ、帯もする間もないから、跣足(はだし)で駆け出すと・・・

『阪本龍馬の未亡人』
 あの時、私は風呂桶の中につかっておりました。これは大変だと思ったから、急いで風呂を飛び出したが、全く着物を引っ掛けておる間もなかったのです。実際、全裸で恥も外聞も考えてはおられない。・・・


 『続反魂香』では、「帯引き締むる間も遅しと」と、帯を締める時間まではなかったものの、着物は羽織っていたと考えられます。
 『千里駒後日譚』は、「濡れ肌に袷を一枚引っかけ」ということで、同じく裸ではなかった様です。
最後の『阪本龍馬の未亡人』のみは、「全く着物を引っ掛けておる間もなかった」と全裸であったことを説明しています。

 次に、龍馬はどうだったのでしょうか。慶応2年(1866)12月4日付けの坂本家宛ての書簡に、寺田屋事件の内容が記されています。追っ手が迫って来た時から、薩摩藩に救出されるまで、非常に詳細で、臨場感あふれる記述で説明を行っています。お龍が龍馬らに急を知らせたシーンを記します。

 おり柄兼而御聞に入し婦人、(名は龍今妻也。)勝手より馳セ来り云様、御用心被成べし不謀敵のおそひ来りしなり。

 以上、お龍さんの回顧録の中でも、着物を羽織っていると説明したり、全裸だったと説明したり、説明が一貫していないのです。お龍さんが、その時の気分で状況説明に脚色したのか、あるいは執筆した記者が加筆したのかは判然としません。
 また、龍馬の書簡では、「勝手から、走って来た」というのみで、特別お龍の姿についての記載はありません。
まあ、家族に「妻が裸で走ってきた」とは言いづらいでしょうし、龍馬の書簡もあまり参考にはなりません。

私は、以下の理由により、お龍さんは着物(あるいは襦袢)を羽織っていたのではないかと考えています。
(1)回顧録を脚色するなら、「全裸」と言った方が話は面白くなる。従って、「羽織っていた」が史実の可能性が高い。
(2)いくら緊急であると言えども、手元にある着物を羽織る時間くらいはあるだろうし、女性が一人で大勢の男の前に出るのに、全裸でも良いという判断を下す可能性は低い。

 お龍さんが、裸だったかどうかという下世話な話題でしたが、いずれにしろ急を知らせたお龍さんは、すばらしい活躍だったのです。

【龍馬の負った傷の深さ】
 傷を負った龍馬、今日のドラマでは、もうこの世を去ってしまうのではないかと思わせる危機的な感じがしました。
上述した、坂本家宛ての書簡に、自身の傷の状況を報告しています。

敵壱人、障子の蔭より進ミ来り、脇指を以て私の右の大指の本をそぎ、左の大指の節を切割、左の人指の本の骨節を切たり。元より浅手なれば・・・(中略)
是幸いと五町斗りも走りしに、私病後の事なれバ、いききれあゆまれ申さず・・・(中略)
扨て、彼指の疵(きず)ハ浅手なれども動脉(どうみゃく)とやらにて翼日(よくじつ)も血が止ず、三日計も小用に参ると、目舞致候。


 襲撃当日は、龍馬はどうも病み上がりで、疲れていたようです。例の慢性のマラリアの影響でしょうか。
怪我自体は「右手の親指を削がれ、左手の親指は関節を切られ、同じく人差し指は骨まで切られた。」ようです。それでも、龍馬は、「傷は大きなものではなかった。」としています。ただ、止まらぬ出血と蓄積した疲労で、逃走中に身動きが緩慢になってしまったのだと思われます。
しかしながら、傷は、後々も影響を及ぼしたようです。左の人差し指は、「思うように動かなくなった。」と言っています。その後、龍馬は多くの写真を残していますが、左手の人差し指を必ず隠すような姿勢をとっています。龍馬にとって、常に気にしないといけない傷をこのときに負うこととなったのです。




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キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!

きました。


とうとう、ここまで

日曜日が今から楽しみですー。




そう、タイトルの通り

あの


あのあのあの~有名な

寺田屋事件です。
福山雅治、『龍馬伝』寺田屋騒動で“瀕死”演技初挑戦



どんな感じになっているのか

ワクワクドキドキ。。



この事件で龍馬は左手を負傷してしまうんですが


それをキッカケに

お龍を連れて薩摩へ行き

結婚となるんです。



あっ

余談ですが

龍馬って、着物の中に腕を入れてる事が多いんです。
RYO-MA20100904.jpg
RYO-MA320100904.jpg
RYO-MA220100904.jpg
銅像まで、腕を着物の中に入れてますね。。


これって何故なんでしょ?


それは

右手は懐にいれている短銃を持っていて

左手は寺田屋事件で負傷したキズを隠していると言われているんです。


もう一度、写真を見て下さい。

2枚目の写真は

両腕を出していますが右手で左手を隠しているでしょ?

負傷した左手は親指と人差し指の付け根なんです。

だから隠しているんですねー。。







まぁ、これは完全に余談だったんですが


この寺田屋事件があったのは

1866年1月の出来事なので

龍馬が暗殺される1867年11月まで

後1年と10ヶ月な訳です。


この約2年間で龍馬は数々の事を行います。

細かく上げると、ややこしいので

ざっくりと言うと

①日本人初の新婚旅行
②日本人初の商社発足
③日本人初の損害賠償請求
④船中八策
⑤大政奉還

①寺田屋事件後、お龍さんを連れて薩摩へ行きます。
そこで日本人で初めて新婚旅行を行う訳です。

②現在ドラマは「亀山社中」ですが
ここで「海援隊」と名前を改めます。
海援隊の由来は「海から日本を応援する隊」と言う意味がある様です。
貿易を行い倒幕へ向けて動く日本初の商社となっていく訳です。

③これは幕府お抱えの紀州藩の船と海援隊の船が衝突してしまい
龍馬の船は沈没してしまいます。
龍馬は紀州藩に対して損害賠償請求を行い、倒幕の動きとは別に
紀州藩からも命を狙われてしまうのです。

④船中八策
倒幕に向けて薩摩・長州だけの連合では弱いと判断した龍馬は
土佐藩の後藤象二郎とも手を結び
薩・長・土の連合で幕府に政権を返上させようとします。
その時に船の中で書いた作戦?です。
土佐藩の山内容堂は「酔えば倒幕・覚めれば佐幕」と言われた怪傑で
良く時勢を読めた人物だと言われていましたが
この時点では幕府寄りの意見を持っていました。
薩・長・土の3連合で政権を朝廷に返上させる進言を行わせる為に
竜馬が後藤象二郎に持たせたものです。

⑤大政奉還
いよいよ倒幕です。
薩摩・長州は武力で幕府を倒すしかないと考えていました。
確かに血を流さない革命と言うのは過去を見てもありませんでした。
しかし龍馬は、日本人同士がケンカをしては外国に乗っ取られると考え
なんとか血を流さない革命を考えた訳です。
この大政奉還とは
徳川幕府が持ち続けた政権を朝廷に返上すると言う内容なのです。
結果的に幕府は力を失い、幕府を倒す(倒幕)につながったのです。


まだまだ書く事は尽きませんが

この辺りで止めておきます。

すっごい簡単に書いちゃったので、読んだ方によっては

「そらちゃうで」となるかもしれませんが

その辺りはご了承下さいね。




あ~楽しみ。




では。




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とうとう、薩長同盟が成立しました。これでいよいよ、討幕に向けての諸藩の動きが加速されていきます。現代の我々でも驚くほどのスピードで、世の中が変わっていきます。
そして、龍馬は常に幕府の警察組織である、新撰組や見廻組に付けねらわれる状況となりました。少々はらはらしましたね。
でも薩長同盟で、何が決まったのでしょうか。

【薩長同盟とは・・・】
ドラマでは、薩長同盟で締結した内容が、あまりはっきり示されませんでしたね。桂小五郎改め木戸貫治と西郷隆盛の会話の中で、聞こえてきた程度でした。
 では、薩長同盟とは、どんな内容なのでしょうか。
実は、薩長同盟という名の締結文などは残っていないのです。ドラマの通り、西郷と木戸の口約束だったようです。
しかし、神経質でもあり、長州に帰って状況を報告しないといけない木戸は、龍馬宛の書簡に「先日の話し合った内容は、頭には入っているものの、これからのために書き残しておく必要があるので、したためた。間違いがあると困るので、添削してくれ。」という内容から始まる6つの条約が記されているのです。その6か条を記してみましょう。


一、戦と相成り候時は、すぐさま二千の塀を急速差登し、只今在京の兵と合し、浪花への千ほどは差置き、
 京阪両所相固め候事
一、戦、自然も我が勝利と相成り候気鋒これあり候とき、この節朝廷へ申し上げ、きっと尽力の次第
 これあり候との事
一、万一戦敗色これあり候とも、一年や半年にて潰滅致し候と申すことはこれなき事に付き、この間には
 必ず尽力の次第きっとこれあり候のこと
一、是れなりにて幕兵帰せし時は、きっと朝廷へ申し上げ、すぐさま冤罪は朝廷より御免に相成り候都合に
 きっと尽力とのこと
一、兵士をも上国の上、橋、会、桑なども只今の如き次第にて、勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義をこばみ、
 周旋尽力の道を相遮り候時は、終わりに決戦に及び候ほかこれなくとのこと
一、冤罪も御免の上は、双方誠心を以って相合し、皇国の御為に砕身尽力仕り候事は申すに及ばず、いずれの
 道にしても、今日より双方皇国の御為皇威輝き、ご回復に立ち至り候を目途に、誠心を尽くして尽力
 いたすべくとのこと。


最初の5つの条項は、「長州が幕府と戦となったときに、どんな状況になっても薩摩は長州の味方をするよ。」という内容です。つまり、薩長同盟は、幕府の長州征伐に対して、薩摩は加担せず、長州の味方となるという約束なのです。
  最後の6つめが、ドラマでは龍馬が提案していた「薩長両藩は、誠の心を持って合体し、・・・ともに粉骨砕身尽力する。」と同じ内容が記されています。

【なぜ龍馬なのか?】
 上述の木戸からの書簡を受け取った龍馬は、その書簡の裏を用いて「間違いない」ことを朱記書きして、木戸に返却しています。これが、かの有名な、「薩長同盟の裏書」です。

 しかしながら、一介の浪人である龍馬が、なぜ薩長同盟締結の重要ポストに位置することが出来たのでしょうか。
これは、歴史の研究の中でも解明されていない謎でもあります。
筆者が考えるには、龍馬は、薩摩藩公認の密使だったのではないかと・・想像しています。薩摩藩士が積極的に動くと、いち早く幕府に勘ぐられることとなり、薩摩藩士の行動をカモフラージュするために、龍馬を前面に立たせていたのでしょうか。龍馬自身も、切望する薩長同盟成立のためであり、両者の利害関係が一致するものだったのです。




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近藤長次郎が、イギリス密航の罪を問われ、自害しました。幼馴染であり、龍馬が勝海舟の門弟となったときからの同志であり、社中の仲間では最も付き合いが長く、信頼できた人物の死でした。
とめどなく流れる龍馬の涙に、同志を失った悲しみ以上に、長次郎のような人物が自由に生きていける時代を作り上げるという、龍馬の強い思いを感じました。

【近藤長次郎、自刃までの史実】
 近藤長次郎の自刃までの経緯・背景が、ドラマと史実では、シーン毎に少しずつですが異なっていました。(その少しのずれが積み重なると、だいぶ異なってしまうのですが・・・)
史実での事件の経緯・背景を記したいと思います。

 まず、薩摩藩名義、長州藩出資で購入した英名「ユニオン号」、薩摩藩名「桜島丸」は、購入後、一旦長州に赴きます。
それに先駆けて長次郎は、購入の交渉に当った長州藩士・井上聞多との間で、『桜島丸条約』なるものを極秘に結んでいたのです。ドラマでも、ちらっと出ていたアレです。
内容を現代語で記します。

・船旗は、薩摩藩のものとすること。
・乗組員は、(亀山)社中を中心とし、長州からは士官2名が乗り組むこと。
・船中の賞罰は、(長州の)仕官にも平等に課せられること。
・六百両のお金は、士官が預かること。
・船中の食費、士官、乗組員の給料、雑費は、長州が準備すること。
・長州が船を必要とした時は、薩摩に連絡すること。


 なんと、船価全てを払った長州には、ほとんどメリットの無い条約だったのです。これでは、長州側が納得いかないでしょう。全くの寝耳に水だった長州の海軍局から、案の定クレームが出たのです。
それでも、一歩も引かない長次郎は、「まだ長州からお金は払われていない。従って、長崎に持って帰ってグラバーに返す。」とまで言い出したのです。
そこで、薩長同盟周旋のために、たまたま下関に到着した龍馬が、条約内容を緩和させる仲介を行った・・・というゴタゴタが起きました。

 ただそれでも、井上聞多と伊藤博文は、長次郎の功績を非常に評価していました。
慶応元年(1865)11月10日付けの、伊藤博文から桂小五郎宛の書簡を紹介します。

 上杉(近藤長次郎の変名)も此度は一方ならず苦慮、(中略)
なほ、同人の英国行きの志に御座候ところ、我藩のために両三月も遅延仕り候故、何卒御おろそかは御座あるまじく候へども、政府よりきっと御礼これありたく愚考仕り候。金なれば百金なり二百金くらいは賜りても宜しきか存じ奉り候。(後略)


つまり「近藤長次郎は、大変苦労してくれた。イギリス留学の意向がありながら、3ヶ月も待ってくれた。政府より御礼もお願いしたい。百両か二百両くらいは出してもらっても良いのでは。」ということなのです。

 上記書簡によると、どうも近藤長次郎は、自刃の何ヶ月も前から、イギリスへの密航が決まっていたようです。確かに、薩摩藩の小松帯刀にもイギリス留学の相談をしていたという史料も残されています。
相当、自らを売り込んでいたことがわかります。

 ユニオン号は、一旦長崎に戻ることとなりました。
謝礼金をもらい長崎に戻った近藤長次郎は、慶応2年(1866)1月14日、グラバーが管理しているイギリス行きの船に乗り込みます。
しかし、天候不順のため、出航が1日延期となったため、陸に上がり宿泊していたところを、社中のメンバーに見つかってしまったのです。
『土佐維新勤王史』によると、次の様相でした。

「友を売るの奴、盟約に触りて直ちに制裁を下すべし」と即決し、この夜一同小曽根の別荘に会し、数人往きて上杉を拉し来りぬ。
まず沢村一同は容を改め「事大小と無く相談して之を行うべきは社中の盟約にして、盟約に背く者は、割腹してこの罪を謝するの明文あり。不幸にして社中にこの人あり。割腹して謝せよ。」


社中のメンバーが、規律違反の代償として、切腹を迫ったと。。。
逃げ場を失った長次郎は、当日夜に自刃し、29年の生涯を閉じたのです。

 このとき、龍馬は京都に滞在していました。
長次郎自刃の一方を耳にした龍馬は、非常に残念がった一方で、長次郎の自業自得を悔やみました。
『坂本龍馬手帳摘要』に龍馬の長次郎評が記されています。

術数余り有って至誠足らず。上杉氏の身を滅ぼす所以なり。
(訳:計算高すぎて、誠実さが足りない。長次郎が身を滅ぼす理由がここにある。)

饅頭屋長次郎。真の侍になろうとして、急ぎすぎたための結末だったのかもしれません。

【近藤長次郎の肖像写真からわかること】
 近藤長次郎の肖像写真が現存します。↓
ドラマでも紹介されていましたね。

tyo-jiro-20100823.jpg

ドラマでの近藤長次郎役の大泉洋さんは、どちらかと言うと温厚な表情をしています。これは、饅頭屋という温和なイメージを連想させるためなのかもしれません。
 一方、近藤長次郎本人はどうでしょう。
非常に鋭い眼光で、温和なイメージは全くありません。利発そうな中にも、威圧感を感じる表情です。
さらに帯刀を見てください。写真からは長次郎は小柄であることがわかりますが、刀が体の大きさに比べて非常に長いことがわかります。また見づらいですが、右手にはピストルを持っています。
 これはきっと「自分は侍である。」ことを強く意識するためのものだったと想像できます。(尚、土佐藩士は、比較的長刀を好んでいました。)
真の侍になりたかった長次郎。この写真に、長次郎の思いが凝縮されているのです。




それでは。



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薩摩名義で、長州藩の蒸気船と銃器を購入する商談。龍馬達は、売り手のグラバー等のしたたかさに、商売の難しさを実感しながら、なんとか成立させましたね。
ただ、龍馬からその報告を受けた西郷隆盛と桂小五郎は、浮かぬ顔でした。薩摩と長州が手を結ぶということの重大さ、難しさを痛感している二人です。両藩が手を結ぶことに未だ半信半疑であり、またその後にどの様な苦難が待ち構えているか読めない・・・そのような複雑な思いが絡み合った表情の様でした。

【龍馬は、長崎にはいなかった?】
ドラマでは、龍馬が京都から長崎に移動し、薩摩藩名義の長州藩蒸気船と銃器類を調達するために、外国商人の間を走り回っていました。
しかし史実では・・・長州の伊藤俊輔や井上聞多が長崎に滞在し、蒸気船、銃器購入の交渉を行った、慶応元年(1865)7月~8月頃、龍馬はまだ京都に滞在していました。
従って、長州藩の武器購入のために主体的に関係者と調整を行ったのは、近藤長次郎や、龍馬の甥である高松太郎など、長崎に残る「社中」のメンバーでした。

特に近藤長次郎の活躍は、凄まじいものでした。(ドラマでも、龍馬の監視下という違いはあるものの、長次郎の活躍が描写されていました。)薩摩藩家老小松帯刀を説得して、長崎に入った伊藤俊輔や井上聞多を薩摩藩にかくまい、直ちに英国商グラバーと銃器類の購入の商談を成立させ、更には薩摩藩船で井上聞多を薩摩に案内するといったような、伊藤、井上の長州藩士に対して、とても手厚い対応を行いました。
ただ、全てがうまく行った訳ではなさそうです。
『維新土佐勤王史』によると以下のような問題も起きたようです。(現代語訳で示します。)

長州藩の海軍局から、「軍艦の購入は見直すべし。」との抗議があった。海軍局は、軍艦購入を一旦承諾したものの、藩庁は財政難であることを理由に拒んだ。また桂は、海軍局の了承なしに、二人を長崎に派遣しているが、これは海軍局を無視しているものだと抵抗があった。これについても調整した。

ただ、このような問題もうまく調整し、蒸気船ユニオン号(薩摩藩名桜島丸、長州藩名乙丑丸)の購入を成し遂げたのです。
この商談成立で、長州藩は、近藤長次郎を最大限に評価しました。しかし、ここから、謙虚さを失いつつある長次郎の迷走が始まってしまうのです。

【龍馬は、京都で何を・・・】
 実際は、長崎にいなかった龍馬。では、京都で何をしていたのでしょうか。
龍馬は、討幕に向けた薩長同盟の足固めとして、関係者への説得を継続していたと思われます。
当時から、京都伏見の寺田屋を拠点とし始めたようで、伊藤痴遊の著書「坂本龍馬 中岡慎太郎」に、寺田屋お登勢の娘、殿井力(とのいりき)の回顧録が記され、龍馬の私生活の一面を垣間見ることが出来ます。

母は、快く(龍馬の宿泊を)引き受けて、宿客一切謝絶して、二階へ匿っておきましたが、阪本さんは昼はグッスリ寝込んで、夜になると何処かへ出かけて往かれる。雨でも降ると、二階へ引きこもって、書見をして居なさる。たまには、私や妹のお春など引き立って、そばに遊びに行くと、
「よく来た。良いものを見せやう。」
とおもちゃのように、鉄砲を行李の中から取り出し、
「これは、ピストルというのだ。今度初めて長崎に来たんだが、もし江戸方の捕手が来れば、これで脅かしてやる。」
など言って、ニコニコ笑われました。
先生は、色黒く、目が光って随分怖い顔だったが愛嬌はあった。怪談話がお得意で、
「今日は雨が降るから、私が一つ怪談話をやらう。」
と私達をズラリと前に座らし、咳を一回して話し始める。
(後略)


どうでしょう。討幕、薩長同盟の周旋のために京都に入っているという、非常に危険な状況ながら、寺田屋の娘たちには、おもしろい“おんちゃん”である龍馬。
日常のプレッシャーから開放された、龍馬の優しい顔が思い浮かびます。




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天保6 1835
坂本龍馬、土佐藩郷士の次男として誕生(11月15日)

嘉永6 1853
坂本龍馬(19)、剣術修業のため江戸・千葉道場へ入門
米国艦隊4隻を率い、ペリー浦賀へ来航
ロシア艦隊、プチャーチン長崎に来航

安政元 1854
ペリー軍艦7隻を率い再来
日米和親条約を結び、下田・函館を開港
日英和親条約、長崎・函館を開港
坂本龍馬(20)、帰郷の際、河田小龍に出会う
日露和親条約、下田・函館・長崎を開港

安政2 1855
幕府、長崎海軍伝習所を開設
安政の大地震

安政3 1856
武市半平太、江戸遊学、桃井道場・士学館に入門

安政4 1857
老中安部正弘死去

安政5 1858
井伊直弼大老に就任
ハリスと日米通商修好条約を締結
将軍家定死去→(これが大河で有名になった篤姫の旦那さんですね。)
安政の大獄始まる
家茂将軍に就任

安政6 1859
神奈川・長崎・函館を開き、英仏蘭米露に貿易を許可

万延元 1860
咸臨丸、条約批准交換のため米国へ出航
桜田門外の変(大老井伊直弼暗殺される)
米国公使官通訳ヒュースケン、薩摩藩士に殺害される

文久元 1861
水戸浪士、東禅寺(仮英公使館)を襲う
武市半平太(瑞山)、土佐勤王党を結成
坂本龍馬(27)、土佐勤王党に加盟

文久2 1862
坂本龍馬(28)、長州萩に久坂玄瑞を訪ねる
坂下門外の変(水戸浪士、老中安藤信正を襲う)
将軍家茂と和宮の婚儀行なわれる
土佐藩・吉村寅太郎脱藩
坂本龍馬(28)脱藩
土佐藩、吉田東洋暗殺される
寺田屋騒動(島津久光、有馬新七らを惨殺)
幕府、貿易視察使を上海に派遣(五代才助、高杉晋作らも随行)
島津久光、幕政改革を要請
生麦事件
京都守護職に松平容保任命さる
幕府、榎本武揚らをオランダへ留学派遣
坂本龍馬(29)、勝海舟に入門
江戸品川イギリス公使館、高杉晋作らに焼き討ちされる

文久3 1863
清河八郎、浪士組を結成、上洛
将軍家茂上洛、賀茂社攘夷祈願行幸に同行
勝海舟、神戸海軍操練所設立へ
長州藩、下関で外国船(米仏蘭)を砲撃
高杉晋作、奇兵隊を編成
薩英戦争
8月18日の政変、七卿落ち
天誅組の乱(吉村寅太郎ら)
生野の乱(平野國臣)
武市瑞山投獄される
坂本龍馬(29)、神戸海軍塾(勝の私塾)塾頭に

文久4
元治元 1864

天狗党の乱(水戸藩、藤田小四郎・武田耕雲斎ら挙兵)
池田屋事件(吉田稔麿、宮部鼎蔵ら新選組に襲われる)
禁門の変
第一次長州征伐
四国連合艦隊(英米仏蘭)、下関を砲撃し上陸、砲台を占拠
坂本龍馬(30)、勝海舟の紹介で西郷隆盛と面会
神戸海軍操練所廃止に
高杉晋作、功山寺に決起

元治2
慶応元 1865

武市瑞山切腹→(横三文字切腹は今まで誰も出来なかったと言われています)
坂本龍馬(31)、長崎で亀山社中を結成

慶応2 1866
薩長同盟成立
坂本龍馬(32)、寺田屋遭難
坂本龍馬、お龍と新婚旅行で霧島へ
第二次長州征伐(幕府・長州藩周防大島を砲撃、四境戦争勃発)
坂本龍馬、下関海戦に参加
将軍家茂、大阪城にて死去
慶喜、第15代将軍に就任
孝明天皇逝去

慶応3 1867
坂本龍馬(33)、亀山社中を再編し海援隊設立
いろは丸事件
坂本龍馬、船中八策起草
中岡慎太郎、陸援隊結成
ええじゃないか乱舞が全国で流行
大政奉還
坂本龍馬、中岡慎太郎、京で暗殺される
王政復古の大号令


1862年の龍馬脱藩から
1867年の大政奉還(龍馬暗殺)まで
龍馬の「英雄」と言われる大偉業を成し遂げるまで
わずか5年でした。

幕末と言われる時代は
1853年のペリー来日より
1869年の戊辰戦争終結まで
わずか16年間の出来事で御座います。




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またまた大好きなブログからの引用です。



下関に寄らず京都に入った西郷隆盛を追って、龍馬(福山雅治)と中岡慎太郎(上川隆也)は京都に向かいました。
京都では、西郷との面会を待つ間、龍馬の周りに新撰組近藤勇や千葉重太郎らが現れ、少々はらはらしましたね。
そして、龍馬とのいざこざ後の夜明け前に、寺田屋を後にする近藤勇。「今から一人で歩いて壬生まで帰るの?結構遠いんですけど・・・」と思ったのは私だけでしょうか(笑)

【西郷隆盛が、下関に寄らなかった原因は?】
 ドラマでは、西郷隆盛が下関に寄らず薩長同盟が頓挫した原因は、「密偵が潜んでいた」こととしていました。
 では、史実ではどうでしょう。
正直・・・はっきりしていないのです。
「維新土佐勤王史」では、京都(の薩摩藩邸)からの急な連絡を受けたとたんに、下関に行くことをやめたとしています。

同十八日、豊後佐賀関に着するや、西郷等は、京師の急信に接するのを以って、馬関寄港の予定を変更せり、

また、その後の京都での龍馬、中岡慎太郎からの詰問に対しては、

両藩同盟の事に着手すべきを説くも、其の機未だ熟せず、

と、今更ですが、「時期尚早である。」と言っているのです。結局西郷は、一度龍馬や中岡の話に乗ったものの、藩内で反対意見が出てしまい、このまま下関に行くと収集が付かなくなるため、土壇場で一旦逃げた・・・ということが、正しい理由かもしれません。

【ついていない龍馬】
ドラマでは、龍馬と中岡慎太郎は、西郷を追って最短で京都に入ってきた雰囲気でした。ただ、史実では、京都に到達するまでの行程が結構大変だったようです。

 薩長同盟の周旋に失敗し、桂小五郎から罵倒された龍馬は、とにかく去ってしまった西郷を追いかけて、京都に向かいました。前回も、「疲れていた龍馬」を紹介しましたが、低下してしまった機運は、まだしばらく尾を引いていた様です。
 慶応元年(1865)閏5月29日に長州下関を出航した龍馬らは、閏6月14日に備前岡山に上陸し、移動手段を陸路に変更して、京都に向かっています。ここまで、下関から岡山間6~7百キロメートル程度の距離を2週間もかかっているということは、平均時速約2キロメートル、歩くより遅い船旅だったのです。
つまり、航海中、度重なる風雨、波浪に悩まされ、一向に前に進めなかったようです。西郷を追うために急いでいるのに、さぞかしもどかしかったことでしょう。
そして、陸路で岡山から京都に向かう途中、龍馬は次の和歌を詠んだのではないかと考えられています。場所は、明石大蔵(現、兵庫県明石市)の宿。

明石にて
うき事を ひとり明しの 旅枕 磯うつ浪も あわれとぞ聞

これは、京都国立博物館蔵の坂本龍馬詠草二にて実在する、龍馬の詠草です。
「うき事」とは「憂き事」、つまり「悩ましい事」を意味します。その憂き事を解決するために移動中の宿で、床について疲れを癒そうとしますが、外から聞こえる波の音さえ、「哀れ」と聞こえてしまう・・・。

龍馬にとって、憂き事「薩長同盟」周旋は、心が病んでしまいそうになるくらい、非常に重い使命となっていたのです。




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 薩摩と長州の仲を取り持とうとする龍馬でしたが、うまくいかず桂小五郎を激怒させてしまいました。なかなかうまく行きません。
 そして、上川隆也扮する中岡慎太郎が、登場しましたね。いや~、やっぱり演技がうまい。さすが、龍馬を演ずる役者の先駆け。ドラマが引き締まった感じがしました。

【桂小五郎、激怒!】
 薩長の和解は非常に難しく、一筋縄ではいかないのですね。西郷隆盛にあしらわれた桂小五郎は、激怒していました。
その、桂小五郎の激怒度合いが示されている実際の記録があります。本当に、龍馬たちは大変だったようです。
『維新土佐勤王史』から引用します。

 桂怫然色を作して曰く。僕固より足下等の言を疑ふ、今や果して然り、と袂を払ふて去らんとす。二人百方陳疎し、且つ誓ひで桂の面目を立つべきを説きしが、桂稍怒を霽し「然らば先づ薩藩より使者を我に派し、和解の議を申込まるべし、然らざれば諸隊必ず極力之に反対せん。且つ薩藩の名義を借りて、外商より艦船を購入するの一儀を周旋されたし。

 「元々、あんたたちの言っていたことを疑ってたんだ。やっぱりそうだった。」と言った具合だったんですね。龍馬と中岡慎太郎は、百回も平謝り。そして「薩摩から使者をよこして、薩摩から和解を申しでろ。そして、薩摩の名義で長州が船を買えるようにしろ。」と。
今風に言うと、少々「逆ギレ」の感が否めませんが、この後、龍馬達は慌てて、西郷を追って京都に向かうのです。

 さて、上の「維新土佐勤王史」の文章のうち、「且つ薩藩の名義を借りて、外商より艦船を購入するの一儀を周旋されたし。」について、気になりませんでしたか?これが、龍馬の作った商社「亀山社中」の初仕事となるのです。既に、伊藤俊輔から同様の話を受けていた龍馬は、この頃薩摩から長崎に移動した近藤長次郎ら同志を動かして、外国船購入の活動を開始させるのです。

【実は、龍馬は疲れていた】
 今回のドラマでも、龍馬は限りなくエネルギーを発散し続けて、とても熱かったですね。
ただ、史実の龍馬は、この頃だいぶ疲れていたようです。同志を従えつつ、操練所閉鎖を経験し、薩摩への売り込み、薩長同盟の周旋と慌しく毎日を過ごす龍馬。疲れるのは当然かもしれません。
桂小五郎が逆ギレした日から20日ほどさかのぼった、慶応元年閏5月2日の龍馬の日記『坂本龍馬手帳摘要』に、次の記載があります。

 曽病アリ。依而養生ノ為、宿ヲ外浜町村屋清蔵ニ取。 □□医ヲ撰ンデ長府かなや町多原某を求、不日ニ平癒スト。期一七日トス。

曽病とは、以前からある病気という意味で、つまり持病を持っていたようです。
龍馬の持病とは、何でしょう?明確な記録はありませんが、「竜馬がゆく」の作者である司馬遼太郎先生は、この小説の中で、「龍馬の持病は、マラリアである。土佐は南国だからこの病を媒介する蚊が多い。竜馬は子供のころにかかって、ずっとこの持病になやまされている。」としています。

マラリアとは、上にもある通り、蚊を媒介とする感染症で、発熱、頭痛、吐き気などを伴う病気で、人命にも関わる危険な病気でした。放置しておくと慢性化することもあるらしく、龍馬は慢性のマラリアだったのかもしれません。蓄積した疲労から、持病が発症してしまったのかもしれません。
日記では、「しばらくしたら治る。17日位には。」ということですので、2週間位は安静にしておくように医者から言われたのでしょう。しかし龍馬は、2日後には宿泊先の移動を開始しています。
そして、やっと治ったと思われる時に、薩長和解の周旋失敗に遭遇してしまうのです。
この時の龍馬は、さぞかし辛かったろうと思います。。。


毎週愛読しているブログからの引用ですw
これから、毎週更新引用して更新しよっかな。




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龍馬の秘策とは・・・薩摩と長州が戦を始める前に、自ら両藩の仲を取り持とう・・・とするものでした。
沢村惣之丞や近藤長次郎から、日本を変えるという志を実現する仕事を速く見つけないと・・・とはやし立てられる中、龍馬が考え抜いた結果の秘策でした。
龍馬が、薩摩と長州の仲を取り持つという考えを実行に移し始めたのは、確かにこの頃。しかし、史実に忠実なのは今回のドラマではこれくらいでしたね。あとは、殆どが史実と異なる内容だったのではないでしょうか。

【龍馬と高杉が長崎で??】
 ドラマでは先週に引き続き、龍馬と高杉が長崎に滞在して、色々接触がありました。
しかし、これは史実ではありません。時系列を確認してみましょう。
龍馬達は、慶応元年(1865)4月28日に薩摩藩船胡蝶丸で大阪を立ち、4月30日頃に長崎に寄港しました。しかし、滞在期間は1,2日のみで、すぐに出航し鹿児島に向かいます。
そして、慶応元年5月1日に鹿児島に到着しています。
『坂本龍馬手帳摘要』の当日の日記に次の記載があります。

五月朔、鹿児府ニ至ル。(朔は、1日の意)

この時の龍馬らの長崎滞在期間は、本当にわずかの期間だったのです。

 一方、高杉たち。
確かに、ドラマでの高杉のセリフにもあったように、長州藩ではこの頃高杉らの活動により、藩論が下関開港、更には長州藩独立の方向に進みつつありました。そこで、高杉、伊藤俊輔、井上聞多は、隠密にイギリス密航を計画し、長崎を訪れています。しかし、それは慶応元年3月21日のことです。その後、イギリス側に密航をとがめられ、あきらめて直ちに下関に戻ってしまいます。
 そして、長州の支藩であり下関を管轄している長府藩は、高杉らの下関開港計画を知って激怒し、高杉らの暗殺を企てます。危険を察した高杉は、4月下旬に四国へ逃亡し、5月には讃岐の多度津に滞在していたことが分かっています。

そう、龍馬がわずかに長崎に滞在していた4月30日頃は、高杉は四国を東に向かって逃亡していたときなのです。
会えるわけが無い・・・(笑)


【龍馬らのカステイラ】
 ドラマでは、近藤長次郎らが、カステラを見よう見真似で焼いて、商売をしようかと試みていましたね。
龍馬達の前掛け姿が、愛らしいシーンでした。
龍馬らがカステラ作るなんてうそ!と思っている方も多いかと思います。しかし、実は龍馬達が「海援隊」を結成した後のこととなりますが、海援隊作成の「カステイラ・レシピ」が実在しています。
国の重要文化財に『雄魂姓名録並海援隊日史秘記』という史料があり、その中の『雄魂姓名録』は、海援隊が残した雑記帳のようなもので、当時の著名な人名や事件、時間の数え方、訓練号令集、アルファベットなど、色々な内容が記録されたものです。この『雄魂姓名録』に最後のほうに、「カステイラ・レシピ」が記されています。では、そのレシピを紹介しましょう。

カステイラ仕様
正味
玉子 百目
うどん 七十目
さとふ 百目
此ヲ合テヤク也
和蘭実方




 まあ、龍馬たちが慶応元年4月末のこの時期に、実際にカステラを作っていたかをしたかいうと、眉唾ものですが・・・
如何せん、龍馬達は数日しか長崎に居なかったので。




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長崎での活動が中心となる第3部が、スタートしました。いや~、龍馬が変わってしまいました。目つきといい、行動の大胆さといい、前回までの龍馬と全く違う性格の人間に生まれ変わったようで、少々違和感を覚えましたが、まあ良しとしましょう。

ドラマでは、龍馬たちは、薩摩藩の藩船「胡蝶丸」に薩摩に向かう前に、長崎に立ち寄りました。
これは史実通りだと考えられます。胡蝶丸が、大阪を発って薩摩に到着する間の、慶応元年(1865)5月初旬、熊本藩士である横井小楠が、関係者に宛てた書簡に「龍馬が、私を訪問したいと言っていた。」というような内容が記されています。このことから、龍馬らは、一旦(1,2日程度)長崎に寄ったとされています。
 しかしながら、ドラマのように、丸山で高杉晋作や西郷隆盛らといさかいになりかけたり、トーマス・グラバーに、蒸気船の貸与を談判したなどの記録は残っていません。これは、創作です。
ちょっと、今回も創作が多かったかな・・・との印象を受けました。

【トーマス・グラバーとの談判は、創作?】
 トーマス・グラバーに、蒸気船の貸与を談判したという、事実は無いことを上述しました。しかし、少々ややこしいですが、これは全くの創作ではありません。
龍馬は、これに非常に良く似た行動を この「胡蝶丸」に乗る以前に、起こしているのです。

 後の海援隊士でもある土佐藩の千屋寅之助のいとこに、千屋金策(きんさく)という人物がいます。
この千屋金策が、元治元年(1864)後半頃(龍馬らが胡蝶丸にのる数ヶ月前)に次のような内容の記録を残しています。

勝先生塾
呼返シニ付逃テ 在江戸 坂本龍馬
在神戸 千屋虎之助
同   新宮馬之助
呼帰ニ付潜ムテ 在浪花 高松太郎
在神戸 近藤長次郎
在江戸 沢村惣之丞


 元治元年(1864)10月に、江戸に召還命令が下った勝海舟が神戸を離れた後、残された塾生のうち、戻る場所が無い龍馬らは、一度散り散りとなったようです。
そこで、今一度龍馬の居場所を確認すると「呼返シニ付逃テ 在江戸 坂本龍馬」ということで、土佐からの呼び返しがあったものの、それを無視し江戸に向かったのです。

 では、龍馬は江戸に何をしに行ったのでしょうか。ただ、逃げただけなのでしょうか。
答えは、薩摩藩家老である小松帯刀が、大久保利通に送った元治元年11月26日付の書簡に記されています。

神戸勝方え罷居候土州人、異船借用いたし航海之企有レ之、坂元龍馬と申人、関東え罷下借用之都合いたし候処、能ク談判も相付候よし。
(中略)
右の船参り候得ば、即乗込ニ相成候間、夫迄潜居之相談承り、余計之事ながら右辺浪人体之者ヲ以航海之手先ニ召仕候法は可レ宜と、西郷抔(など)滞京中談判もいたし置候間、大坂御屋敷え内々潜メ置申候。
(以下略)


ちょっと読みにくいので、現代語訳します。

神戸の勝海舟に使えていた土佐人が、外国船を借りて航海しようとたくらんでいるようだ。坂本龍馬という人物が、関東に下って外国船を借りることが出来るか先方の都合を確認したところ、問題なく調整が済んだらしい。
(中略)
この浪人達から、「借りた船が来ればすぐに乗り込みたいが、それまでは潜伏させてほしい。」との相談があった。余計な事ながら、これら浪人達を航海の手先にした方が良いのではと、西郷などが京都に滞在中にも相談していたものであり、大阪の御屋敷(藩邸)に潜伏させている。
(以下略)


 そうです。龍馬は、自分たちが活動するための船を調達することを目的に、江戸に行っていたのです。
一介の浪人、それも脱藩者です。普通なら、外国船を貸してくれるような奇特な人物なんていないと思うのですが、龍馬は、我々の想像を超えるような、驚くべき行動を起こしていたのです。
結局、外国船を借りることは出来なかったようですが、この行動力が、薩摩に「彼らを使ってみよう」と決断させた理由だったのではないかと考えます。
ドラマでは、薩摩に庇護された状況を背景に、勢いに乗ってグラバーに蒸気船貸与を申し出ましたが、史実の龍馬は、全く宛ても無くほぼ単身で江戸に向かい、蒸気船を探していたのです。
ドラマ以上に、驚くべき行動をとった龍馬が、史実には存在しています。




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いやぁ

龍馬伝の影響・・・

と言うか

大河ドラマの景況と言うのは凄いもんで御座います。



今まで

坂本龍馬は

好きな人は好きな歴史上の人物って感じでしたが


今回のドラマで

グッズが、続々と販売されていますねー







幕末好きの

マイスターからすれば


こんなに嬉しいことはありません。



だって

幕末グッズが

簡単に手に入っちゃうんですものーーーーー



最近見つけたのは これ


セブンイレブン限定
海洋堂フィギアコレクション



と言うことで

早速購入する訳で御座います。
omake20100321.jpg


これはマイスターの勝手な

こだわりなんですが

坂本龍馬の成長に合わせて

1つづつ買って行きたいと思い


第一弾
koutijyo-20100321.jpg
「龍馬誕生」
1835年(天保6年)
坂本龍馬と高知城で御座います。


この第一弾を購入したのが昨日で御座います。



で、で、

本日には第二段
kurofune20100321.jpg
「黒船来航」
1853年(嘉永6年)坂本龍馬18歳であります。
剣術修行の為に江戸へ行っていた時に発生した黒船事件
龍馬も土佐藩の命により、品川沖で沿岸警備についたと言われています。


このシリーズは

龍馬没まで全7シリーズありますので

ちょくちょく購入していきたいと思います。




早速、明日 会社に持って行って

自分の机に飾ろうーーーっと。


ではー




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今日は

家の近くにある

カルフールまで行きました。


ここにはガチャガチャが

そら沢山あるんですが


こんな物を発見です!
gatyagatya20100110.jpggatyagatya220100110.jpg
幕末志士の家紋コレクション




















キタ━━━━━(((゚∀゚)))━━━━━ !!!!

って感じです。



少々テンションが上がり


早速トライしました!


で、まずは古銭風ストラップにチャレンジして

1個目は

高杉晋作の家紋が出てきました。。



どうしても坂本家の家紋が欲しいマイスターは

再チャレンジして・・・






atari20100110.jpg
ゲ━━━━━━(σ・∀・)σ━━━━━ッツ!!!!

これは早速

携帯に装着しました。




で、次のコレクションは
atari220100110.jpg
これー

左上から
「沖田総司」→「新撰組」→「新撰組」
「近藤勇」→「坂本龍馬」


つまり


坂本龍馬が出るまで500円費やした訳です(;´Д`)


ここまで費やした金額700円・・・


少ない小遣いが減って行きます。。



しかし


それでは終わらない


機械の写真はありませんが

携帯デコシールのガチャガチャも発見・・・


正直どうしようか

悩んだすえ




「1回だけ・・」







出たのが


dekosi-ru20100110.jpg
榎本武揚の家紋


いや、不満がある訳じゃないんです


榎本武揚だって


幕府軍最後の海軍総大将だったわけで・・

函館で

土方歳三と共に戦った訳で・・・



ただ、



やっぱり


kamon_sakamoto-ryoma.jpg
この家紋のが欲しかった。



このデコシール ガチャガチャは

1回200円するんで


今回は断念しました・・・・・・




次回は必ずゲットしたいと思います。









いやぁ























テンション上がったぁ




龍馬伝も好調ですし

幕末ブーム来ましたねー






ではー、今日はこれですー
本日、実家に岡本真夜姫のCDを探しに行って見つけた
mayookamoto20100110.jpg
アカペラアルバムの中の一曲

岡本真夜の「ANNIVERSARY -Chorus ver.-」
なんか
「綺麗」
ただただ、そう思います。




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明日は、マイスターが崇拝する

坂本龍馬の命日で御座います。

京都では毎年命日になると催しがあり

遠い昔に行った事があります。

今年は行きたいなーと思ってたけど

予定的に行けそうになーーーーーいjumee☆disappoint

ざ・ん・ね・んです!


来年は大河も始まるから、ただでさえ人多いのに

考っえられへん!ぐらい人多いんやろーなぁ・ ・ ・


今年は仕方ないので

京都 近江屋 もしくは京都霊山護国神社の方角を向いて
黙とう ですな
Kyotoreizangokoku_haiden.jpg

「命は天命にあり」

坂本龍馬だけでなく

幕末を生きた人は、みんな こんな気持ちで生きていたなんて

考えるだけで身震いします。

かっこえーわー



やっぱり幕末最高っ!



幕末の志士達が日の本の国を改革した様に

特発三協の志士達も業界を改革出来るようにしましょー

まずは、社内の洗濯から・ ・ ・

こんな事を言っているマイスターの

業務グループから洗濯!やぁシャツ




じゃあ、今日のナンバーはこれ~

チェッカーズの「ジュリアに傷心(ハートブレイク)」でっす。
チェッカーズ大好きーにか
藤井フミヤわけーなぁ




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今まで書く機会がなく、温存していた事を書きます。

皆さん、御実家など自分の「家紋」って知ってます?

マイスター家の家紋は・ ・ ・

何度か、ばぁさんなどに聞いた事がありますが

ハッキリ覚えていません。

なんか今になって気になってきました><

昔の人は家紋を大事にしていたのに

現代人ときたら、自分の家の家紋も知りません。



kamon_sakamoto-ryoma.jpg
どなたの家紋か分かりますかぁ?
組み合い角に桔梗の紋です。

まぁ、マイスターが坂本龍馬好きと言う事で

坂本家の家紋で御座います。

んで、これが
s26_120.jpg
誰だか分かりますか?
桔梗紋

明智家です。

坂本家は、昔 明智家の子孫だと言われているそうです。

だから家紋も似ているんでしょうか?

好きだ好きだと言いながら知らない事が多くて

ほんっとうに面白れーなぁーって感じです。

来年は龍馬伝がスタートするので

こんな家紋の事なんかも知っておけば

見る目線も変化するのではないでしょうか?




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マイスターは

このDVDを持っています。

138_1.jpg

10年ぐらい前に新春スペシャル番組で

12時間にわたってテレビ大阪(東京)で放送されたドラマです。

なんか急に見たくなり

昨年 購入しました。

で、竜馬伝なんから来年始まるので

また見たくなって毎夜少しづつ見ています。


まぁ、それはそうと

このDVDBOXの裏面には、こんな言葉が書かれています。

DA-436_2.jpg

「夢は、あるか。」です。

坂本龍馬の夢は何か。

幕府を倒し、身分制度をなくす事?

それもそうでしょう。きっと。

でもこれはプロセスだと思います。

当時の土佐藩(高知県)は他藩と違い

身分制度が非常にうるさかったそうです。

関ヶ原の戦いで勝利を収めた遠州掛川から土佐24万石を与えられた

山内家(功名が辻)とその家臣が上士(上級武士とでも言いましょう)

関ヶ原で負けた元々土地にいた人たちが郷士(郷土武士って感じですね)

「郷士は武士にあって武士にあらず」と

そんな身分と言うもので、故なく虐げられて来た

商人郷士(お金で武士の株を買った郷士)の龍馬は

ジョン万次郎・勝海舟・河田小龍などに出会い

アメリカは身分制度が無い事を知ります。


結局何が龍馬の夢なのってところですが

「自由に海に出て、世界と商売をしたい」

これですね。

その為に徳川幕府を倒し身分制度を無くす必要があったのです。

これだけでは語弊もあるかもしれませんが

大政奉還後に新政府の要人一覧を作り

西郷隆盛のところへ持っていった時に

要人の中に龍馬の名前がなかった事に驚いた西郷が

西郷:ここに、あなたの名前がないが?
龍馬:世界の海援隊でもやります。

と言う、やりとりが残っています。

歴史に残る程、衝撃的な やりとりだったのでしょう。

「権力は必要ない、自由に好きな事をやりたいんだ」と言う

龍馬なりの意思表示だったんでしょうね。

またまた文章ばかりで長くなってしまいました。

簡単に言います。




を持ちましょう。

おわり。




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龍馬伝の撮影がスタートしました。

ついでにポスターも解禁されました。


このニュースをみて

一言

うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!

って感じです。

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かっこえぇなぁ

絶対、今年中に高知行こ。

そう心に決めたマイスターでした。




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実のところマイスターは

幕末って時代が大好きです。

事の始まりは

坂本龍馬を好きになったところから始まります。

そう忘れもしない中2の夏から・ ・ ・

出会いは「お~い!竜馬」
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マイスターらしくマンガから入ってます。

そこから

年月が過ぎるのは早いもので

17年ほども幕末好きを続けています。

オカンから言わせれば

「幕末なんて面白くない」

ですが、

マイスターは大好きです。

他の時代とは違います。

頑張ればのし上がれる時代ではありません。

そんな中

幕末の志士達は思想は違えど

身分制度を無くし、日本を良くする為に立ち上がるのです。

立場が違えば掲げる正義も違います。

それをまざまざと見せつけてくれるのが幕末です。

攘夷派しかり

佐幕派しかり

です。

今まで「お~い!竜馬」を始め色々読んで来ました。

竜馬がゆく
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幕末新選組
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燃えよ剣
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など

高知県の桂浜にある坂本龍馬記念館も訪問しました。

そして11月15日には

京都へ坂本龍馬の墓参りも行った事があります。

そして

来年は、大河ドラマが坂本龍馬の生涯です。

同じ土佐藩(高知県)出身の岩崎弥太郎(三菱財閥創始者)目線で描いた

坂本龍馬の生涯です。

題名は


竜馬伝で御座います。

主演が福山雅治と言う

非常にかっこの良い坂本龍馬ではありますが

どんな内容になるのか、今から楽しみにしているマイスターなのです。

ちなみに

坂本龍馬が使用していた刀って皆さん名前を御存知ですか?


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陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)と言います。

だから何やねん・ ・ ・ですね。

脱藩(この当時は重罪)時に二番目の姉が龍馬に渡したと言われる愛刀です。

生涯刀を抜いて人を斬り殺した事が無いとされる坂本龍馬が持ち続けた刀です。


こんな刀を差して、幕末を体験したい




とは思いません。


だって、浪士だと思われて

新選組に切られたりしたら大変ですやん!

あ~

幕末の話をすると非常に長くなるので

この辺でやめとこ。




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